神経痛で悩んでいる方にはとても参考になると思います。

坐骨神経痛 闘病記

はじめに

 長年にわたる、激しい座骨神経痛の痛みは、ヘルニアとも診断され、しつこく私につきまとった。その間、いろいろな人に出会い、何にも替えがたい善意と励ましを受けた。私のまわりの時間は空しく空回りし、社会は目まぐるしく変わった。苦しかった。
 生きていればいいこともあるさ。幸せって心で感じるもの。暖かい言葉がどれほど人を勇気づけるものかを知った。 この書をお世話になった人と、同じような病気で苦しんでいる人に捧げます。

(写真−がんが治ると評判の玉川温泉の岩盤にて)

目次

世界は狂っている  腰痛のはじまり(オートバイで)

二度にわたる事故(ワゴン車の屋根から転落、カナダでヒッチハイク中に交通事故にあった)腰痛の再発

新医学研究所をたずねて (横浜の治療師) 野中外科医院(骨に異常はない、座骨神経痛です)
秋山療院・北沢しん灸院(鍼灸)  温泉湯治(山梨県の西山温泉) 藤沢市民病院  ペインクリニック 石井整骨院 東洋しん灸院  ここまでくると打つ手がないのか  リハビリ  増富ラジウム温泉  湯治の心象風景 藤原整骨院(筋を治す名人) びわの葉の温灸 漢方薬 十字式  骨直しの先生  世界救世教 玉川温泉与太物語 1 湯治の方法 湯治生活 岩盤のつきあい
玉川温泉与太物語 2   再び玉川へ  パチンコ屋の主人  帰らざる人  まぶしい湯治客  場違いの客  大部屋の面々

神経痛の顛末2    痛みにも慣れて  無料でカイロプラクティック 暗転  蜂針治療   韓国での治療 ゴールデンウィークに発散   テルミー  自強法  野口整体  玉川温泉与太物語3   韓国、自然学校

 神経痛の顛末1  


 世界は狂っている
 一九八八年春まで生きて三七歳になった。世間ではこの年を働き盛り、中年というらしい。身も心も華やぐ桜の開花情報が聞かれるこの時期、私はまだ神経痛で床にふせっていた。この冬は暖冬と言われていたせいか、実際の寒さより暖かく感じたような気がする。大きく開く窓から移り行く季節を感じていた。庭のふくじゅそうが咲き、蕗のとうがたち、タラの芽がでた。何事もなかったように繰返される自然の営み。
 しかし、目に見えないところで起こっていることが世界を狂わせ始めている。
 今の私にとって最大の問題は神経痛である。 

 腰痛の始まり            
 五年前のこと、市会議員選挙を手伝っていた。選挙前のある日曜日、公園でオートバイでトライアルの練習をしていた。ウイリーをすると、居合わせた人が見るので得意になって頑張りすぎた。ギクッと腰をひねって、背骨が腰のあたりでいやなかんじ。そんな時は安静にして二、三日していれば直ると最近知った。その頃は知らなかったのですぐ体操をしたり、鉄棒にぶらさがって背骨を伸ばそうとした。
 直りかけたところで、雨でたおれた選挙事務所前のバイクを起こしたとたんまたギックリ、選挙中痛みどおしで、本番に弱い市川といわれる羽目になった。はりの先生を紹介されて一度受けたがはかばかしくなかった。その後、沼田さんの紹介で湘南台にある脊椎矯正の上手な鈴木さんのところに通って治ったのだった。
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 二度にわたる事故
 三年前の四月、佐渡の帰りのこと、ワゴン車の屋根の上にさらに一メートルも荷物を積みあげ、フェリーで渡ってきた。新潟港を出たところでガードにさしかかった。上を見てもらいながらゆっくり進めて行った。「大丈夫よ」という声に安心して走ると、なんと出口の側高さ制限を表示しているゲートに荷物があたった。他の道に迂回すべきだった。
 くずれかけた荷物をなおさなくてはならない。駐車場にはいって、くるまの上の段ボール箱の上に登った。風が強く吹いている。ロープをはずしているうち、ぐらっと箱がゆれた。とっさに飛び降りようとすると、足がロープにからみ逆さに落ちかかった。あっという間に落下、アスファルトに叩きつけられた。左手と左の腰からおしりにかけて強く打った。
「ああ、何てことだ」と地面をこぶしで叩いた。こんなことで不自由な身になりたくない。 運転を代わってもらい、横になって帰った。骨盤のあたりがはれてきたが、骨に異常は無いようだ。左手をついたせいか肩から背にかけて痛んできたので鈴木さんに見てもらった。一ヶ月ののちには痛みは完全に取れた。打ちどころが悪ければ、どうなっていたか分らないと考えるとぞっとする。

 一ヶ月後、カナダをヒッチハイクで旅行した。自分を試し、何かを得たくての旅行だった。ヒッチハイクで乗せてくれる人に悪い人はいないという話しを信じて道路に立った。英語の勉強にもなる。いなかの道で12時間待ったこともあった。
 その日は、ホンダ、シビックにひろわれ、着いた町の観光地を案内してもらった。その町にはユースホステルがあったから泊まれば良かったのだが、気をよくして夕方からまた次の車を待った。いつの間にか夜になり、車が少ないので野宿しようと、道ばたに捨てられている大きな木の箱に入って、ありったけの服を着込んだ。夜がふけるにつれ寒くなりとうとう我慢できなくなった。ハイウェーの近くのトラックターミナルまで歩いたが、声を掛ける勇気が出ず、ハイウェイを車に手をあげながら歩いた。
 夜中の二時ごろになって、大型トラックがブレーキをきしませて止まった。かけよって乗り込むと勢いよく走り出した。ところが運転手のようすがおかしい。話がめちゃくちゃな上に、時々蛇行する。何とか話題を見つけながら前を見ていた。メーターは110キロをさし、何台も追い越していく。突然目の前に、大型トレーラーが迫ってきた。
「危ない、追突する。」
 私は叫びながらでハンドルに手をかけた。運転手はあわててハンドルをきりながらブレーキを踏んだ。
 気がついた時にはトラックは横転。私は運転手の上にのっかっていた。左のわき腹をギアの頭で打ったようだ。運転手は「大丈夫かと」聞いた。上になってしまったドアを二人で開けて外へ出た。運転手はすぐに他のトラックを止めて乗って行ってしまった。残された私は、力をふりしぼって歩き出す。トラックのアルミの屋根から荷物が突き出ている。衝撃の激しさわかる。ほどなくパトカーが来て、婦人警官に呼び止められた。パスポートを見て、「おきをつけて」とにこっとした。
 町に出勤する乗用車に便乗した。乗用車の中できっちり安全ベルトをした。気持ちが悪くなってきた。腎臓でもやられたのではないかとあせる。トロントの町に入るとすぐおろしてもらい、空地の草の上に横になった。じっと耐えているとどうやら、歩けるようになった。バスで、ユースホステルに行き、投宿した。
 傷を癒すため、日昼は公園に通い、芝生の上に身を横たえた。朝から夕方まで横になって、ビルのガラスに映る景色や、昼時に食事を公園でとる人々を見ていた。太陽が東から西へ動いて行く。バスが時間の動きに合わせ角を曲ってくる。太陽の角度が変わると景色も人の流れも変わった。自分だけが止まっていた。ああ助けられた。気持ちはさわやかだ。もらった命。生れかわったような気がした。これから新しい生き方をしよう。ユースの前でだれかに水をかけられた。かげで白人の女の子たちが笑っていた。インディアンの浮浪者に間違えられたらしい。病院には行かず三日休んでバスで旅を続けた。
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 腰痛の再発

 昨年の夏、藤沢食生活研究会主催の佐渡自然学園に参加した。都会の子供達に田舎を体験させようという企画である。毎年参加して九回目になる。車で冷蔵庫や、台所用品を運んだ後、腰が痛んだ。
 佐渡は私が旅した中で最高の場所だ。中学、高校時代を追体験させてくれたのも佐渡だ。生まれて初めて海に潜り、断崖から海に飛び込んだ。かれんな蛍、風に吹かれて木の葉が話し出す。廃校で高校生たちと歌い、校庭にゴザをひいてみんなで朝まで星を眺めた。朝方、紫から濃いオレンジ、黄色、青と変わっていく空の色。一斉に鳥が鳴いた。「まあ、きれい。」若い感動が身を包んだ。
 腰は痛いが、またいつものことかと、あまり気にかけずに藤沢へ戻った。
 痛み始めてから一ヶ月以上経って、鈴木さんのところへ行った。テレビを見ていた鈴木さんは「だれの紹介?」と聞いた。沼田さんと答えると「そう」と短く言った。正座をしたうしろに鈴木さんが座り、腰と背骨を指でさぐったあと、肩から首に腕をまわし強くねじる。ポキポキと背骨が音をたてた。「これでよし」と言って終わる。また黙ってテレビを見始めた。治療の後、ブレーキを踏んだとたん痛んだ。せっかく治療したのに効果半減かと思った。一週間後にもう一度行った。
「一週間前に一度来たんだけど、まだ腰が痛いんです。どうでしょうか」と相談すると、「どんどんこなくちゃだめだよ」とにこりともしないで言われた。
 一回目と同じことをし「これでよし」と言った。

 九月にフィリピンへ自然農業の視察に行った。暑さのため左足の傷が化膿し、歩くのが大変だった。雨の日にバスターミナルでトイレを捜していた。バスの時間がせまっていたのであわててすべった。左の腰をコンクリートに打ちつけた。トイレの前にいる男に、「トイレを使いたい」と言うと私の泥に汚れたズボンに同情したせいか、すぐトイレを空けてくれた。男が叫ぶと、トイレの中から浮浪者がぞろぞろ五、六人も出てきた。私のスタイルも、その人たちと変わらなかったろう。その後、足腰がしくしく痛む上に便秘も重なって睡眠不足になり、腰にとっては最悪の条件だった。

 新医学研究所をたずねて         

 横浜の上星川に新医学開発研究所がある。研究所と言ってもマンションの一室に奥野さんが一人でいるだけだ。以前そこでカイロプラクティクを受けたことがある。一回五千円だ。印刷を一生懸命やっていた頃、腰の痛みから始まって、ふとももまでが痛み苦労した。それが二度の治療でなおった。その時もだいぶ長い間痛かった記憶がある。印刷の仕事は夜昼なく働くことが多かった。インクや洗浄液の溶剤がよくない。仕事の後ふらふらになった。仕事場は建てつけが悪く冬は冷える。印刷機械の前で夜あかしをする日が続いた。生活は不規則でコーヒー、たばこ、甘い物をひっきりなしに。缶入り飲料だけでも一日5本くらい飲んでいた。若いからもったのかも知れない。インクが手についていない日はなかった。
 久しぶりに訪ねたわけだが、奥野先生は私を覚えていた。印刷の見積もりまで頼まれた。 二人の先客があった。「この薬が体に合っているかどうかみてみましょう。」薬を親指と人さし指ではさんで持ち、患者の体に押付け透かすように見た。
「この薬は止めといた方がいいなあ、ちょっと強すぎるよ」と言った。治療の終わった客に「家に帰ったら、名刺をとうしてエネルギー送るからこの肌につけといて」などと言っている。電話でも、エネルギーを送って治したりたりしている。壁には表彰状や、空手で全国優勝したときの写真などが掛けてある。
「この間アントニオ猪木の治療したんだよ。」と自慢する。
 天井から、理科の実験に使うような磁石が糸で吊るしてある。両手に磁石を持ち、体のあちこちに磁石をあてて腎臓機能マイナスとか肝機能プラスとかブツブツ言いながら、確めていく。せわしくベッドに寝かしたり、座らせたり、立って歩かせたりしながら。独言のように「胃のはたらきをよくする。次は頭」「今からおちんちんをよくする」などと言いながら気合いをこめてポイントをを確めては押す。
 瞑想によってこの治療法を体得し、この力は自分を常に清らかにたもたないと発揮されないのだそうだ。
 電車にゆられながら心は重かった。立っていると痛いので椅子に腰掛けてじっと世の中を見渡した。景色は灰色だ。前かがみができないのだ。一通り治療したが、痛みはますばかり。帰りに大和へ行くつもりで電車に乗ると気がついたら月見野だった。見る物すべてしらじらと感じられた。
 十月にキムチのことで韓国へ行った。長く立っていると痛いが、歩いていれば楽なので、不自由はなかった。左ももの奥が痛むが、韓国のテレビに出演したり、キムチの材料を仕入れたり、有機農業関係者と交流したり、実に有意義だった。痛みのことをすっかり忘れていた。
 十一月にもう一度韓国へ行くことになった。カナダに移民している従兄弟が、父親の遺産のことで帰国していた。韓国で貿易の打ち合せをしたいと言うのだ。私は案内をかねて、韓国で治療しようと考えていたが、何しろ忙しくて治療には行きそびれた。だいぶ寒いところを歩いたが、休み休みなら何とかなった。旅館の風呂の湯で暖めるると楽になって、よく寝れた。この年は三回韓国へ行った。これまでは、あの辛い料理にお尻の穴までひりひりして大変なのに、すっかり慣れた。キムチを山ほど食べても何ともなかった。
 腰というより、左足がつっぱるという感じで、力はでるがひっかかるような鈍痛がある。
 十二月は藤沢のトポスの前でキムチを売ったり年賀状の印刷、PTAの広報印刷など細々と仕事をしたが、足が痛いのは変わらなかった。
 クリスマスにかけて、子供を連れて福島県の桧枝岐へスキーに行くことになった。運転を一人でした。なだらかなゲレンデで休み休みすべってみたが、苦しい程ではなかった。最後の日に無理して急なゲレンデで何回かころんだのがいけなかった。。その後温泉に入ったら腰のあたりがつっぱってやけに重苦しかった。
 元旦は大山へ初詣でに出かけた。天気が良いので歩いた。立ち止まると痛いが歩っていれば楽だった。もっと歩いた方がいいかも知れない。

 正月休みがあけるのを待って一月八日に横浜の奥野さんのところへまた行ってみた。
「できるだけのことはするからね、ここへ来てほんとによかったね」などと言って、安心させてくれた。以前とは違う治療法をしてくれた。
「寝る前によく反省してる?」そう言われるとなぜか気が重い。
「印刷の関係が原因かも知れんな。体に悪いものが溜ってるようだ。」
「腕を抵抗してみて」と力が入るかどうか確めながら、指でつぼを推すと腕に力がはいるつぼと入らないつぼがある。そうやって悪いつぼを探し、指圧と気合いで治療していく。「ここへ横になって」とベッドを指差した。奥野さんは目をつぶって透視した。
「うん、腎の下、ここだといってる。」と解剖図の一点を指した。
「かすかな石のようなものがあるね。これをとらないと痛みはなくならないな。来てよかったね。ほっといたら大変なことになるからね。」ぽかんとしている私に確信を持って言葉を続けた。
「腰痛、ヘルニア手術は絶対だめだね。手術では治らないよ。あなたの場合手術してないから必ず治るよ」とアドバイスしてくれていた。
「薬を出すから飲んで見て。それからなるべく太陽にあたって、水をたくさん飲んでね。大丈夫、ここへ来た以上は治るから。このまえ来たおばあさんだって歩けるようになったんだから。」そう言ってせんじ薬を出してくれた。
 猿の腰掛けと沖縄から持ってきたという木の幹、それに木の葉。三〇分、水から煮て飲めばいいそうだ。
 先生は鼻かぜをひいていた。家に戻ってふと気がつくと、私も同じ症状が出ていた。すぐなおったが不思議な気がした。
 薬を三日間せんじて飲んだが、まずい上にイメージがどうしようもなく暗い。ついに飲めなくなってしまった。
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 野中外科医院
 PTAの集りでみんなが心配して野中外科医院を勧めてくれた。以前にも外科にかかったことがあったが赤外線をあてて暖めただけだったので、行ってもしょうがないと思っていた。野中さんは他とはちがうと勧めるので行ってみた。ベッドにあおむけにねかせ左の足をまっすぐにしたまま上に持ちあげて、「痛みはどう?」と聞かれた。「つっぱって痛いです」と答えると、「座骨神経痛だね」と言った。腰椎のレントゲン写真を四枚撮って見た。「骨に異常はないな」と言う。「内臓の病気とかには関係ありませんか」「ないね。注射はいやだろ」と言い、しっぷ薬と飲み薬三種を出してくれた。そのころから左の膝から下のふくらはぎが痛くなって、歩くとき前屈みになってきた。薬は痛みは止まらず、むかむかするだけなので五日間で飲むのをやめた。
 座骨神経痛に関する本を図書館で借りて読み始めた。


 秋山療院
 平川さんに佐渡のことで電話をしたとき、辻堂の秋山療院を紹介された。長年痛んだ腰痛が一回の治療で治ったから行ってごらんなさいとすすめる。
 行って見ると客がいないのですぐやってくれる。一日何人くらい客が来るのかなと思った。はりってもうからないのかと心配になったくらいだ。先生は原書をさりげなく読んだりしていて頼もしい。
 まっすぐうつぶせに治療台に寝ただけでも痛い。腰にざぶとんを当てて寝た。はりは慎重に三本うった。その後、若い女の人が灸をしてくれる。灸をしながら先生は脈をとり、虚だとか実だとかいい、体をさわって肝がはれているという。
「きょうはお風呂は入らないでください。酒は飲まないように。辛いもの、刺激物は絶対駄目です。」「キムチとかですか」「カレーライス、香辛料も駄目ですよ。」キムチをばりばり食べていた私はショックだった。
 三回通うと「一応のところはやってみたが良くなって来ないということは、内臓が気になります。総合病院で検査を受けてください。それで何でもなければ、また来てもらって結構なんですが。」というのだ。野中外科でもらった薬が強かったせいで胃でも壊したかと思ったが、湘南中央病院の内科で清水先生の診断をあおいだ。かっけの検査のように膝と神経を金槌でたたいて調べた。整形外科の受診を勧められたが様子をみることにする。血液検査の結果は白だった。
 藤沢食生活研究会の新年会で会員で千葉に住む、しん灸学校を出たばかりの人に症状を話すと、はりの先生を変えて見たらどうかと助言された。

 北沢しん灸院
 丁度そのころ、プリントショップの星川さんから北沢しん灸院を紹介されたので、二月六日から四回続けて行った。
 そのころはお尻の奥がいたくなってきていた。何かに左のお尻があたるとビクンときてしばらくの間ズキズキ痛む。先生は、お尻は意外と複雑で打撲すると、筋肉の内出血のあとがしこりとなって残ることがある。それが神経を圧迫しているのかも知れないと言う。寝ていてもお尻が痛いのでそうかなと思った。
 はりを一〇本位手早く打ち、三ヶ所に低周波の電極をはりにつけ二〇分ピクピクさせる。筋肉のこりがとれ、痛みもやわらぐ。おしりの痛みがだいぶひいた。とりあえず安静にした方がいいということだった。
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 温泉湯治
 温泉に行ってみた。山梨県の西山温泉。ひなびた湯治場で混浴の大きな木の風呂で気持ち良かった。一緒に風呂に入った人から、「ここは、正直なところ胃腸専門だから、神経痛なら増富ラジウム温泉がいい。私も行きははって行き帰りは歩いて帰ったことがある。」と教えられた。
 悪くなるばかりで、夜寝返りをうつと激痛がくるようになってきた。寝ても覚めても左足が痛い。死んでしまいたいほど情ない。痛みさえおさまればいくらでも安静にしていられるのにと泣きたかった。祈ってもみた。
 箱根の温泉にも七回通ったが、肩こりなどには利いたが、なかなかおもわしくない。
 左足のくるぶしが痛い。
 死んでしまいたいほど苦しかったとき、たまたま見たテレビの子供のものまね歌番組につよく力づけられた。病人は勇気づけることが大切だとつくづく感じた。
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 藤沢市民病院
脊椎カリエスを心配する母の勧めで藤沢市民病院へ行った。母の母がカリエスで死んだんだと言うのだ。若い先生は背骨のあたりをプラスチックのかなづちで盛んに叩いて痛み具合を聞いた。
「これはひどい、二日くらい入院して検査しましょう。」
「入院してどういうことをするんですか。」
「はりでつついて調べてみてから症状にあった薬をだします。」
「カリエスとかの心配は?」
「カリエスならとっくに骨がとけちゃってるよ。」
 レントゲン写真をとった。これ以上被爆したくなかったが気が弱くなっていたためこばめなかった。できてきた写真を並べた。私には見てもさっぱりわからない。
「骨はわるくないね、曲がってるのはかばってるせいかな。」
「きょうは痛み止めを出しときましょう」
 病院内の薬局で順番が来て、薬をもらおうとすると私のぶんがなくなっていた。係りの人は不思議がって捜した。
「だれか間違えて持って行ったのかもしれない。」ともう一度処方した。待ち時間が長い上に、こんなにずさんさだ。間違えて持って行った人はどうなるのかと考えると、信じられない気持ち。
 股関節が痛い。レントゲン写真を撮ったことでも気おちし、暗い日々となった。

 
ペインクリニック
 神経痛には麻酔ブロックしかないと英会話を勉強していた教会の人から聞いていた。三月五日にペインクリニックをやっている志沢クリニックに行ってみた。先生の自宅が私の家の隣なのだ。電話をしたらすぐいらっしゃい、痛みをとりましょうとのことだった。これでなんとかなると思った。
 背骨の横に太い注射をして、腰のけんいんをした。上向きに寝て肩と腰をベルトで固定して機械で四〇キロの力でひっぱったりゆるめたり約十分。まるでごうもんだ。
看護婦は「笑ってごめんなさい」と言いながらクスクス笑う。神経痛で死ぬ人はいない。帰りには麻酔がきいてなんとも気持ちが悪く車の運転が大変だった。いくらか足のふくらはぎの痛みがやわらいだような気がした程度で期待した効果はなかった。

石井整骨院
 股関節が気になるので妹が紹介してくれた石井整骨院にも行ってみた。結構混んでいる。柔道も教えている先生は触診して「股関節だっきゅうだったら、歩けない。」という。
 ボール紙と包帯で股関節を保護するように縛ってくれた。
 治療は暖めながら患部に電極をつけて二〇分間低周波をかけるというもの。トントントン、ビリビリビリビリとしびれてくる。確かに痛みがやわらぐ。痛みに関係する神経が刺激によって麻痺したように鈍感になり少しの間痛みが遠のくのだろう。治療後半日は楽になるがどうやらその場だけのようだ。保険がきいて、安いせいか客はひっきりなしに来る。真剣に治療を受けてる人を見ていると健康がいかに大事かつくづく感じる。暗さがある。
 志沢先生の紹介で箱根の二の平医院の中国ばりに二回通った。いきなり太いはりを十本くらい打ち強烈なパルスをかける。筋肉がピックピックする。ぬいた後は血が出て痛い。股関節に利くように頼んだ。痛み止めも貰った。石井整骨院に三回とで、股関節の痛みはとまった。
 低周波治療器を1万5千円で買い、自分でもピクピクさせた。
 ふらりとたずねてきた中学校時代の同級生の井上氏が、アコーデオンの練習しすぎで、肩をいため、長年東洋しん灸院にかよっている。気長にはりで治すしかないという。
 三月はなるべく安静につとめ治療に専念したせいか、寝返りもできるようになり、痛みどめの薬が利くようになってきた。これで良くなっていくのだとうれしかった。
 四月からは中国語とスペイン語のテキストを買いNHKの語学講座を聞き始めた。
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 東洋しん灸院

 四月四日から城南にあるはりにいくことにした。葉山市長が世話になったというのを市長のおばさんから聞いていた。井上氏も通っていると教えてくれた。伊藤さんは話しずきで、友だちのようだった。
「葉山さんの紹介じゃ、なおさないとしかられちゃうね。」と、これでなんとかなるのてはないかと私はほっとした。治療用ベッドが3台並んでいる。しきりがないのでとなりに若い女性がきた時は、ドキドキして痛みも忘れ気分もほぐれた。
 はりの頭にもぐさをつけて火をつけたり、光線治療器で暖めたり。はりを抜いてから筋を伸ばすように関節を動かしたりしてくれた。三回目の治療のときにリハビリの教官というのが来ていて、筋肉骨格などを一通り動かして、痛みの状態からみて仙腸関節が悪いのではないかと言われた。仙腸関節というのは、背骨と骨盤の間の繋ぎ目のことらしい。確かに寝返りをうつとそのあたりが痛い。飲み薬の鎮痛剤は胃に悪いから座薬がいいとすすめた。麻酔注射を打ってると、骨がぼろぼろになってしまうからやめなさいと言う。
 大学病院を紹介するから一度みてもらったほうがいいというのが結論だ.目の前が暗くなる。市民病院で入院をことわったのは、手術などしたくないからだ。
 鎮痛剤がきれたので志沢クリニックに行き、座薬があるか聞いた。
「座薬はふくじんホルモンですからおすすめできません。胃に穴があくこともあります。」と言って飲み薬と胃の薬を出してくれた。また、「仙腸関節が悪くて足の先まで痛むことはないです。いずれにしても、元は腰椎ですから麻酔ブロックしてけんいんした方がいいです。ひまをみてけんいんしましょう。けんいんしていれば治ってきます。」という。
 野中外科医院から借りてきたレントゲン写真を見せると、骨は正常とのことだった。志沢先生にはり灸の同意書と診断書を書いてもらって、はりの治療費の健康保険を申請した。 だいぶたって、志沢さんの奥さんに会った。
「どうですか?。ぐあいは。」
「まあまあですね」奥さんのはリュウマチもなかなか治らないようだ。
「うちの主人はなくなりましてね」なぜか脳外科の医師だったからその関係の病気かもしれないと思った。
「病気でですか」
「ええ脳いっけつなんですのよ」

 仙腸関節を保護するコルセットを買ってきてしてみた。確かに楽になってくるのがわかる。寝てばかりいるので床ずれができた。筋肉が目にみえてなくなってきた。毎日のように治療に通った。ある日風呂に入っていて電気がとおるようなしびれが足の先まで何回も来た。それからは曲げたままで伸ばせなかった腰と足が伸ばせるようになった。しかし喜んだのもつかのま四月十二日ころからは、こんどは左足がまっすぐになったままでまげられなくなってきた。 
 トイレにすわれない。風呂にも入れない。運転もできなくなった。打つ手はないのか。一分と立っていられない状態だ。

ここまでくると打つ手がないのか
 四月十六日、藤沢福音教会の尾城さんと奥秋さんが訪ねてきた。協会が主催する英会話教室を病欠していたのだ。尾城さんの奥さんも入院中である。
「語学なんかより身体を治すことが先決でしょう。いい病院へ入院した方がいいでしょう。入院の費用は一月にかかる費用のうち、五万円以上は健康保険の補助がありますよ。」そのあと私の手をにぎり熱心に祈ってくれた。祈って治ったらキリスト教を信じようと思った。
   
 
 風呂もトイレも激痛との戦い。便秘、痔、尿道炎まで併発する。風呂に入らないため田虫も腹部に回ってきた。いつのまにか尻から足にかけての肉がげっそりおちた。背中の背骨が浮いたように目立ってくる。伊藤さんは自分自身も足と目が悪い。不自由な身体で私の筋伸ばしをしてくれる。
「ほら、この辺りの筋肉が全然ないもんね。腰痛になりやすい背骨だね。」
「どうして。」
「お尻からすぐ背骨がもりあがってるもの。腹筋をつけるような体操をしなきゃだめだよ少しづつ痛くても身体をおこすようにしてごらん」痛みをこらえるのが精一杯だ。
 このままでは歩けなくなるんじゃないかと心配になってきた。

リハビリ
 筋肉をつけるにはリハビリがいいと思った。。丹沢の七沢温泉病院へ入院してみようかと、重度障害者施設マロニエ作業所の指導員の池下さんに相談してみた。
「電話番号を教えるから聞いてみたら。でも、秋田県の玉川温泉が神経痛に利くらしいよ。行くなら車で送ってあげる」と言ってくれた。本当にうれしい。
 七沢温泉病院の整形外科へ電話するとそれなら、神経科へ聞けと言われ、神経科へ電話したら整形外科へという。らちがあかない。玉川温泉の様子を池下さんに聞いてもらった。医師の指導で温泉療法をやっているが、八月までは予約が混んでいるとのこと。
 そこでとりあえず、山梨県の増富温泉に行ってみることにした。不安だ。伊藤さんに電話で相談した。足を曲げると痛いので、自宅の小さい風呂に入れない状態で、困っているというと、行ってみたらいいという返事だった。
 奥野さんに電話をすると、腎臓が悪いのだからそれを直さないことにはどうしょうもない。右の腎臓に結石がある。電話で私の細胞に正常に働くように呼びかけて念波をおくってくれた。
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 増富ラジウム温泉

 増富は湯治客で一杯かと思ったが、ひっそりとさみしいところだった。
 風呂場で会った横浜市から来た五〇歳位の女性は、私と全く同じ症状だったという。「痛みを我慢しながらバスで来てました。この湯は家に帰ってからが特に調子が良かったですね。三回目に来た後、無理したせいか家で全く動けなくなって救急車で入院しました。食べることさえできなかったんですよ。それがね、入院中、トイレで後ろ向きにふわっと転んでから、不思議にどんどんよくなったんです。全快までは一年かかりました。」「検査なんかは、とても苦しいですからやらない方がいいですよ。」
「とにかくこの湯を信じてやってごらんなさい。」という。
 四月とはいえまだまだ寒い、湯は鉱泉でひんやり冷たい。ふるえながら三〇分入り、そのあと熱い湯に入り体を暖める。暖まるときの気持ち良さは抜群だ。
 以前この湯で湯治したときは、三日目で手のむくみがすっと取れたという六五歳になる男性は、辻堂の浜見山に住んでいる。初めて来たときには車椅子だったが、今では散歩もできる。体をなんとかなおそうとしているひたむきな姿に親しみを感じた。
 東海大病院に四〇日入院して検査したがどこも治しようがない。それ以来コルセットをしつづけていると話した。
 湯とうじ十日と言うらしい。金泉閣の風呂はL字形の湯船で真中に湯口がある。そこからごぼっごぼっという音をたてて、ガスと一緒にぬるい湯がちょろちょろと出ている。
 三階の部屋からエレベーターで一階の風呂まで這うように通う。動いた後は足がじんじんと痛む。時計を見ながら足を抱えるようにして温泉に入る。
 一日六回入った。一人で入るのはさみしい。三〇分間一人で入って出ようかと思ってもだれかが入ってくるとつきあいでついつい長くなる。
 午後の湯治に体格のいい女性が入ってきたので遠慮して湯船の端にいた。
「こちらの方がいくらか暖かいからいらっしゃい。」と声をかけてくれた。
 変形性関節炎の治療に甲府から来た。太っていることを気にしている。私が玄米を勧めるといい話を聞いたと喜んだ。
「そこには三〇分と書いてありますけど、長くたってかまわないらしいですよ。」
 立川から来た親子は私の症状を見ると藤原整骨院へ行きなさいという。
「だまされたと思って行ってごらんなさい。これから私たちも韮崎を通るから車に乗せて行ってあげます。」と言ってくれた。
「なんでも、以前はこの奥に住んでいたらしいんですけど息子さんが柔道整骨の免許を取って韮崎インターの前に開業したんですって。」
「もともとは農業していて、兎の筋を研究して筋を直す方法を編み出したんですって。うわさを聞いてだんだん遠くからもお客さんがくるようになって。腕がいいんですよ」
 電話で問合わせるとその日は土曜日で午前中で終わる。月曜日に行くことにした。

 三鷹市から来ていた、佐藤さんというしん灸師の夫婦と風呂で一緒になった。主人の目が白っぽくなっている。白内症というものらしい。
「家内が可愛そうだから見てやってくれというもんだから、よかったらみてみましょう。」「是非、お願いします。」と私は喜んだ。
 ほどなく私の部屋を訪ねてきた。
「私はこういうことをしています。」差し出された名刺には、経絡研究会とある。
「この名刺は差し上げられません。商売でみるわけではないのに、後でお金を送ったりする人もいたりするものですから、そういうのは困るんです。」なかなかはっきりした人だ。「私は三〇年前から開業してます。当時、はりブームで忙しくてもうかりましてね。遊びすぎて、すいぞうを悪くして五年休みました。それからは道楽仕事で一日三人くらいにしてます。最近のはりは臨床ばかりで、理論を知らないで開業してるのが多い、そういうのがはりの名を落としているんですよ。今までにはりにかかったことがありますか」
「中国はりとか、電気で刺激するのが多かったです。結構痛いんですよ」
「痛いはりはいけません。こういう病気は体の浅いところからきているので深くうってはだめですよ。」佐藤さんのはりは、経絡に沿ってはりの先で刺激していくだけで、刺すことはなかった。
 次の夜、部屋の外で不気味な音がして、うなされた。夜中に胃がさしこむように痛い。たまらず、佐藤さんの部屋に電話をして来てもらった。
「これは、胃けいれんですね。」と腹をはりでつつくようにして経絡治療をしてくれた。次第に痛みはとれた。武士の亡霊にたたられたようで、怖かった。それからは、一泊六千円の旅館のぜいたくな料理を食べようとすると痛くなった。どうしても食べられず。おかゆをもらって少し食べた。テープで録音しておいた宮沢賢治作の銀河鉄道の夜の映画の声を何度も聞いた。さそりの話しや人のために自分の命をささげても言いというところで涙が出た。この痛みがなくなるのならなんでもできそうだ。

 湯治の心象風景
 武田信玄の隠し湯で奥には金山がある。戦国の武将が傷を癒した増富ラジウム温泉。ごぼっ、ごぼっと何百年もの間吐出され続けてきた鉱泉。ラジウム含有量は世界一という。この冷たい湯は本当に利くのだろうか。今も昔と同じ成分があるのだろうか。水面上にピチピチとはねるガスは肺の奥まで作用し、皮膚はピリピリとする。湯は澄んだり濁ったり一日で変わる。
「人がたくさん入ると澄んじゃうんだよ。そういうときはあんまり利かないんだ。」
 壁には木をあしらい、プラスチック製の古びた葉や花が飾られている。入浴法を書いた看板を読むともなくながめながらじっと体を沈める。
 ラジウムを体に吸収させるため、初めに熱い湯にはいってはいけない。一日五合の湯を三回に分けて飲むといいと書いてある。
「これ飲んで帰ると便秘しないね。かぜもひかない。」
 旅館内にまつられた神棚に線香が匂う。どんな思いでここへ通ったのだろう。バスや車のない頃。三〇キロの道程を。
「バスを降りてその場で歩けなくなって旅館の人に手をひいてもらってきたんです。」
「さしこみますか、3日がまんすれば楽になりますよ。ここは肝臓にもいいです。ひどかった人が治ってかえりました。私も整骨院をしてますから一度見てあげましょう。」
 そうやって励まし合いながら入る。「老若男女人は皆師」と神棚の柱に大書してあった。
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 藤原整骨院                    

 四月二〇日、やっとの思いで車を運転、増富温泉から藤原整骨院に朝七時五〇分に着いた。八番の札をとってまっていると八時から受付けが始まった。すでに四〇人は並んでいる。藤原さんは増富温泉の近くで農業をしながら長く筋なおしをしていた。うさぎの筋を研究し、治療方をあみだしたというすごい人だ。腕が良いので患者が集り、息子が柔道整骨の免許をとり正式に開業して、二年前韮崎インターチェンジの前に診療所を建てた。日本に二人しかいない腕だという。県外からも患者が集まる。
 しかめっつらで入っていったギックリ腰の人がはつらつとした顔で診療室から出てきた。だれもが感嘆している。八番が呼ばれた。相当期待がもてそう。
 日に焼けて人の良さそうな、いかにも農家のおじさんという顔で、大きな声をだす先生の前に背中を出していすに座った。腰のあたりを丹念にさわって、
「お、ここ、痛いのはここだ。はいベットに横になる。ちょっとのとこがまんだ。」
 お尻の横を押さえられたまま横向きに寝て、筋をぐりぐりと押された。ガーンと痛みとしびれがくる。五分程してもう一度さわった。指で筋を触って上下にしごいてみて「動いてる。よし大丈夫だ。十日はじっとしといてよ。身体をまっすぐにして寝て。」
 それで治療は終わり。「十日でふとももはとれる。全部とれるには十八日かかる。体をまっすぐにしておとなしくしてなきゃこまる。風呂ははその間は入っちゃダメ。問題なければもう来なくていいよ。」
 温泉ももちろんだめ。旅館へ戻り、荷物をまとめて家へ向かう。フロントでは藤原医院に行った人はみんなそうなんだからと渋い顔でキャンセルに応じてくれた。
 行くときは送ってもらったが、帰りは運転席に横になって座り車を運転して、休み休み三倍の時間をかけてやっと家に戻って来た。一日でだいぶ楽になってきた。
 藤原整骨院では患部を暖めてはいけない、冷シップをしなさいという。水をつけてもいけない。温泉もだめ。藤原整骨院には七回通うことになる。保険はきかないが、一回、二千円前後で、交通費の方が高い。私ははずれやすいので診療室のソファーに落ち着くまで身体をまっすぐにして寝かされた。先生と患者のやりとりを聞きながら。
「はずしてもらってはこまる。じっとしていなくちゃ。」と先生の表情は明るい。若い女性には特ににこにこしながら治療だ。
「ほらほら痛いのはここだ。いいかいここへ寝て。これから裸になってもらうがいいか。」「いやです。」小さい声で答える。
「何がいやだ。ほらみんな見てるがね。男みんなにこっち入ってもらうか」などと冗談を言ってるすきに、筋を強烈に矯正する。話ににつられて余計な力が入らずスムースに治療できる。
「ほら、パンツははかねぇで来なくっちゃだめだって言ったのに。奥へ手をつっこんでもええか。」などという言葉に慣れるまで私はどぎまぎした。
 いろいろな原因が重なって、こうなったと思う。山梨県韮崎の藤原整骨院で筋を直してもらうまで、痛みはいろいろに変化しながらきつくなる一方だった。医療にたずさわっているひとの善意を感じたがその限界も感じた。筋が悪いと言ったのは藤原先生だけだった。 五月九日に再診に行ってみると「とまっている。」ということで、だんだんと直っていくといわれた。痛みどめの必要は一週間でなくなったもののそれから先がなかなかである。痛くてまっすぐにしてなんかいられない。
 ふとんの中にテ―ブルを置いて、その上に足をのせて寝ている。動く度に激痛がくるので仮眠と言う状態である。一時六八キロあった体重は五八キロに下がった。左足は骨がわかるほど細くなった。手でつかむと、骨しかないのがわかる。
 たまたま、新倉重雄氏に電話をしたところ一週間位肩が痛くて首がまわらなくて困っているというのだ。藤原整骨院を紹介したら一回の治療で治ったという。私は納得。
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 びわの葉の温灸 回復に向かって           
 浅井さんと植村さんがお見舞いがてらにびわの葉の温灸をやりに来てくれた。びわの葉の上から紙を置いて棒状のもぐさに火をともし患部に押し当てる。説明書には、癌の痛みにも利くとある。幸い家の裏にびわの木があるので続けることにした。新しく温灸セットを注文した。

漢方薬
 五月の初め姫野さんに、韓国から持って来てもらった鉱物性の漢方薬を四回飲んだ。その後おしっこが近くなった。排尿の後、つまったような痛みがある。尿道炎か尿道結石かと絶望的気分になった。植村さんに電話で相談すると、いい薬があるからと夜届けてくれた。
 ウナセルスという薬を飲んで、二日目の朝、おしっこをしたらころころ石のようなものがでた。奥野さんに言われたのはこのことかなと思った。これで少しはよくなるのかも知れない。おしっこは普通になった。
 便秘にも苦労した。かんちょうしたり薬を飲んだりしてなんとかここまできた。これからどんどんなおるのかと気分は楽になってきた。
しかし痛みは続く。

 
 漢方薬が手にはいったので飲み始めた。テイコクの83とST―01というもの。二週間飲み続けても胃腸はなんともない。とりあえず、びわの葉温灸とと漢方薬でやってみよう。 一ケ月立つと、ふともも、足首、おしりの一部、わきばらの痛みはとれてきた。まだ座ってはいられないが寝ていれば痛みは少ない。少しよくなるきざしがあると喜び、悪くなると悲観していたが、今度は確かだ。しかし、あまりに細い足腰を見ると心もとないのだ。 藤原整骨院に行ってから五〇日、痛いながらも座れるようになった。丁度藤原整骨院に行った日を境に症状は改善されてきた。しかし、左足の親指を中心にしたしびれはかえってひろがっている。ふくらはぎの外側とおしりの痛みは姿勢によって起こる。あと二週間のがまんかなと思う。
 鵠沼の橋本内科でツムラ―7という漢方薬を処方してもらった。病院の漢方薬は信頼できるし、保険がきくからとてもいい。しかし、漢方薬は即効性がないようだ。目に見えてきくことはなかった。いつのまにか飲むのを止めた。
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 十字式
 植村さんが紹介してくれた十字式というのに行って見ることにした。大船の駅から藤沢方向へ少し戻ったオートバイ屋の二階に会場があった。
 時間になると上半身裸になって並び、ひとり一分もかからない速さで治療がすすむ。私の番になった。治療師の前に背中を向けてすわる。白い粉を背骨に沿ってつけて、背骨の曲り具合を見ながら軽くこぶしで叩いていく。右の脇腹をしたから上へもちあげるように手で叩いて「こうすると痛いだろう。肝臓がわるいな。酒を飲む時は棺桶用意してからな。今度来たとき腰と肝臓と言ってな。」と言われた。
 初回が三千円、次から二千円だった。帰りに解説してある本を買って読んでみた。背骨は二四個の骨で構成されている。その骨の間から神経が出ている。強烈な痛みを感じると痛みを避けて骨がねじれ骨にある神経の出口を狭めて神経を圧迫し痛みを感じにくくする。痛みはやわらぐが圧迫は残る。圧迫が神経を刺激し続け神経痛をうむ。その骨のところを通る自律神経の管理する内臓もわるくなる。訓練された治療師が念波を送り骨をまっすぐにするように働きかける。すると筋肉が動いて正常になる。鼻炎、アレルギー、ぜんそくも劇的な効果があると書いてあったので風邪をひきやすく心配な娘を連れていった。理屈はよく分かるが、娘にも四回通った私にも目立った効果はなかった。

骨直しの先生
 新倉三喜夫氏が見舞いに来てくれたとき、湘南台の骨直しの先生を紹介してくれた。七月に三回行った。
 電話してから訪ねると、ヨーロッパ系の帰化人の先生は朝から酒のにおいがぷんぷんで陽気なのだ。お茶をかわいい日本人の奥さんに入れてもらって御機嫌だ。
「三回やってみてだめだったら温泉へ行くしかないね。私はね、もう三〇年温泉の研究してるんだけど、あうあわないがあるからね。腰痛のばあいは肘折温泉だね。あすこに三週間いればきれいになおっちゃう。あとは万座温泉の硫黄の湯がいいね。」
「肘折温泉はどこにあるんですか。」
「さあね、もうずっと行ってないもんでね。ここに温泉の案内書があるから見てごらん。ひどい腰痛の人がいてね骨がずれていたんだ、これがね三週間して帰ってきたらきれいに治っていたんだよ。温泉で骨のずれが治るなんて不思議だね。」同じことを一人ごとのように繰り返しながら、まず後ろ向きにすわり、指で背骨をさぐる。骨盤が左にまがっているから戻すために、腰の骨盤のでっぱりをひっこませるといったしょうしょう荒っぽい治療である。ベットに上向きに寝た上から先生がのっかり、足で骨を押す。足の痛みにたいしては、「けっぺたを何とかすれば良いんだ。」と何度もお尻をねじまげた。
 新倉さんの紹介だからと半額にしてくれたが、その後、あまり痛いので藤原整骨院へ行ってみたら、また筋がはずれていた。
 足の痛みは思うようにはとれない。

 世界救世教
 ライフタウンで原発に反対するコンサートがあった。そこで小佐野さんを紹介された。「もし、差支えなければ、浄霊してあげるわよ。都合のいい日を教えて。」と親切に言ってくれた。娘を連れて家に来てくれた。何ヶ月も掃除をしたことがないような私の部屋を見て、よほど驚いたらしい。運悪くちょうど猫の蚤がはピンピンはねていた。
「奥さんはどうなさっているんですか。」「今度からは奥さんのいないときは困ります。」 2度とは来てはくれなかった。
 それから、世界救世教藤沢布教所の方へ通った。運転もなんとか、できるくらいにはなっていた。救世教は、自然農法を勧めている関係で、以前から関心があった。最近では内紛騒ぎで、混乱している。布教所の雰囲気も暗くて、続けることができなかった。浄霊で治った人もいるが、結局、信仰が問われる。お互いに正座して、手のひらをかざす。痛みが強まってまた、ひいていくような気がした。しかし、強い力は感じられなかった。私は寝たままでやってもらったがそれが気にいられなかったらしい。お礼にお金や祭壇を磨いたりして感謝の気持ちをあらわすのが普通なのに、寝転んでいたのだから、誰も私に浄霊をする人はいなくなった。
 温泉も一週間くらいでは、結果は出ないだろう。長期で玉川温泉へ行くことにした。
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 玉川温泉与太物語 1

 秋田県の八まん平の谷あいに玉川温泉の湯けむりがあがっている。このあたり一帯は、いつ爆発してもおかしくないという。どこを掘っても温泉が出るらしい。
 玉川温泉に着いて二日目、背中一面にブツブツができた。痛くて湯につかれないのでよく見ると噴火口のような穴になっている。風呂の管理人に言うと看護婦に見せろという。診療室が大浴場の裏にある。行って見て驚いた。七〇歳位のしわくちゃのおばあさんが出てきた。あっけにとられている私の背中に、フォークでぬり薬をにこりともせずにぬった。看護婦というものは白衣の気高い美しいものという従来のイメージを塗り変えられた。ここは下界ではないことを思い知らされた。
「あんた、水虫もでてるね。」足を見ると、足の全面が皮がむけたようになっている。水虫の再来だ。
 湯が合わないのかと恐ろしく、他の温泉に行こうかと思った。駐車場でおろおろしていると、親切なおじさんが、この温泉に詳しい人がいるから待ってなさいと男の人を呼んできてくれた。
「この温泉は、悪い所があればそこにブツブツが出るの。四、五日たつと、こうしてなおってくる。」と自分の首筋を見せながら言う。見ると、黒く枯れてはいるがたくさんのブツブツがあった。「これで一週間目、ここから薬が入って行くんだから心配しなくていいよ。私は卒中の予防にお湯に頭をつけてるんだ。せっかく来たんだから、十日くらい入っていきなさい。」
「お湯をうすめて飲むのもすごくいいよ。」
「神経痛なら、岩盤がいいよ。間違いなくきくから。」
 私が岩盤って何かと聞くと、ござをかすから行って見なさいといった。
 そこまで言われるともう少し頑張ってみようかという気になった。


 湯治の方法
 癌で目がみえなくなった夫の手を引く老妻。岩磐への道に二人の後ろ姿が湯煙の中に消えていく。背中には、きっちりまかれたゴザが肩から腰に斜めに背負われている。この夫婦の姿はテレビでも放映された。
 本来、湯治の方法はそう厳密であるはずがない。しかし玉川では意外にきっちり守られている。朝起きるとまず風呂場へ直行。これが混浴なのだ。三分間湯にはいり、七分間横になって体をさます。床に滑らないようにとマットがひいてある。横になるたびにマットと腰や肩がこすれ皮がむけてくる。それも噴火口のようになって痛い。それを三回繰返す。慣れてしまえば、混浴もどうということもない。
 朝食、ばっちり栄養をつけなければならない。売店で買うしかない。暖かい御飯に味噌汁が恋しい。朝食の後は岩盤。風呂に入って昼食は食堂で、味もそっけもない、名ばかりのかつどんとか、めんるいとか。牛乳と唐もろこしですませたり。昼寝のあとまた風呂、そしてまた岩盤。売店の前で顔見知りに会うたびに、
「岩盤行くの? 今日は何回目?」とかならず繰返される。会った人の数だけ聞かれる。 風呂場では「今日何回はいった?」


 三日もすれば人を見れば「岩盤ですか?」と言っている自分に気がつくのである。
 ああいつの間にか玉川の人間になったな、と。
 岩磐まで石畳みの道で百五十メートルはある。途中に湯が湧いているところがある。もうもうと湯煙りが上がって、わき出た湯は川になって流れる。一箇所の噴出量としては日本最大。九七度の温度がある。「この蒸気を吸うと呼吸器の病気に良く聞くんですってね。湯を汲もうとして死んだ人がいるそうです。」「玉川温泉の研究していた人でしょう。」行きは三回程石の上に倒れこんで休まないとたどりつけないので、わき口を見ながら寝転んで休む。だが、帰りはすいすいと帰ってこれる。それほど岩磐は効くのだ。

 岩磐というのは地熱で熱くなっている岩だ。一箇所テントが張ってあり、十六人が横になれる。放射線が出ているので一回四〇分間と決まっている。子供を生む可能性のある女性は近付いてもいけない。ほとんどの人がパンツもぬいですっぱだかでタオルケットか毛布にくるまる。いたって解放的だ。天気のいいときには岩のあちこちでゴザを敷いて寝る。毒ガスがでているのでロープのはってあるあたりには寝てはいけないのだ。集団で中毒したこともあり、鳥や動物が死んでいることもあると言う。
 夜の九時頃急救車が来た。「若い人が酒を飲んで風呂に入って倒れたんだって」若い人っていくつだったのと聞いてみると五〇歳だという。ここでは五〇歳で若者なのだ。どうやら死んだらしい。湯滝で腹をうたせてはいけないと言うのを守らなかったためだと噂している。
 自炊の人が多い。日曜祭日の入場者数は千人と言う。四方二〇キロは町がない山の中で一一月から四月まで雪に閉ざされる。自家発電で電話は無線電話。テレビは二台だけ。
 玉川温泉の効用について大袈裟に言う人が多いが、確かに効く。私も一五年以上も出たりひっこんだりして悩み続けていた水虫が三日目には外に追い出され一週間で消えてしまった。もし神経痛が治らなくても水虫が治っただけでも良いなと思った。田虫というのも水虫の兄弟らしい。風呂に一ヶ月も入らなかったとき、田虫が腹、背中まで蔓延した。松井皮膚科に行ったら全身田虫にやられたら大変なことになりますと、びっくりされた。その長年苦楽を共にした田虫ちゃんもいつの間にか消えていた。湯は日本一の強酸性で、PH一・二となっている。十倍に水で薄めてもすっぱい。続けて飲んだら食欲がなくなった。「食前でなければだめだ。」とだれかが教えてくれた。
 
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 湯治生活
 湯治場にいると毎日が勉強である。ありとあらゆる職業の人がきている。ベンツで乗り付ける社長も、こりない面々も、勿論いる。裸のつきあいが始まる。
 四、五人が一部屋で話し出した。一人がダイヤモンドのみわけかたと、その密輸の仕方を話した。私には縁がないことなのですぐに忘れた。次はただで人の酒を飲む方法を話し始めた。それを聞いていたもう一人が高速道路の料金の踏倒し方を話し出すと、最後に長老が前科の消しかたを自分の経験から語った。
「そんなわけでおれは二〇年間住所不定だったよ。児玉誉士夫な、あいつにもらいさげてもらったこともあったよ。児玉も田中角栄も病院でわざとさ、注射されてからああなったんだぜ。かわいそうなもんだよ。」
「もうすぐ天皇が死ぬと恩赦で刑務所からみんな出て来れるんだ。だから今自首するやつが多いんだよ。」
「今の皇太子があれが好きで三度子供をおろしているんだってんだからたまんねえよ。」といった具合。それを聞いていた青年が混乱して頭をかかえてしまった。

 柴田さんという三八歳の男の人
「いやこれは話したくないな、思出すのがいやなんだ。」柴田さんがぽつりと言った。
「そういわれると余計聞きたくなるね。」と私。失恋の話しかなんかかなと期待した。
「福島でね。ブロイラーの仕事をしていたときのことなんだけど。ひよこを世話していたわけさ。年配の人と二人で組んで、夜一人づつ交替でえさやりと見回り行くんだ。ある晩、夜中の二時頃鶏舎の中を歩いていたら女の声がするんだ。」ぬればを想像した私は次の言葉にがっかりした。
「五歳くらいの女の子が立ってないているんだよ。」なんだ五歳か。
「だってそんなとこに女のこがいる訳ないんだよ。」
「どうして。」私は近所の子供が迷いこんだものと想像していた。
「だってまわりに家なんてないし、鶏舎の入口には鍵がかかっていてだれも入れないんだよ。五メートルくらい先にね、立って泣いているんだ。わぁーって持ってたバケツ放り出して事務所へ戻ってふるえてたら、やっぱり出たかって。その一緒にやってた人もその前に見てたんだね。」私は昼下がりの景色をちらりと見て
「どんな着物だった。」と身をのりだした。
「今時ないような古い着物だった。」
「足は?」
「足、あったみたいだなあ」
そして二人は大笑いをした。昼間でよかった。その夜、車の中で一人になると背筋がぞくぞくしたのだった。でも、どうせ出るならいい女がいいな。
 予約していなかったため、部屋がとれないこともあり、経費節減のため、ずっと車の中に寝泊りしていた。
 晴れたのは二、三日だけで、雨に布団は湿った。新聞紙を敷いて寝ている。しかし、正座ができるまでに回復していた。ここへ来てよかった。
 車の中は日に日に寒くなってくる。家をでたのは八月一八日、暑い盛りだった。夏物しか持っていない、連日の雨に身も心もさいなまれていた。
 風呂場の横に畳の休憩所がある。そこで柴田さんと雑談をするのが習慣のようになった。窓から日一日秋が忍び寄ってくる。
「子供のころ、部屋にいるとき急に自分を刀で切られて苦しんだんだ。ほんとに痛くて、回りの様子もはっきりと見えた。これは前生自分が死んだときのことだと思ったわけ。そのときの経験から霊魂不滅ということが信じれるようになった。」
「自分は酒が少しとめしさえあればここに何年でもいたいね。自分の部屋は事務所の二階で毛布が一枚とテーブルがあるだけ、寝るのも作業服のままだよ。後輩におごって給料は残らない。」と道路にセンターラインや歩道の線をかくのが仕事という柴田さんは話した。
 岩盤のつきあい
 岩盤で、七〇歳位のおばあさんのとなりになった。車の中に寝ているので夜寒くて困ると言う私に、あさって帰るからタオルケットをあげましょうかと言ってくれた。それに味をしめた訳ではないが、今度はとなりに寝た仙台から来たという威勢のいい人に食べるものがなくて苦労していると言った。明日帰るからさつまいもをあげるねと約束してくれた。地熱の吹きでる穴へいもをアミでくるんでいれておけば岩磐で寝ているうちにおいしくできている。
 その夜大浴場でその人達にあった。岩磐で会わなかった人は私を見て後ずさった。私は思いきりにこにこしながらにじり寄った。
「さっきはどうも」と挨拶する。
「ジュースなんかも飲むでしょ?。明日の朝、車のところへ届けてあげる。車はバス停のそばの駐車場だったわね。」
「一番汚い車だからすぐ分りますよ。」
 朝もらった毛布にくるまって一時出た太陽にまどろんでいると、来ました来ました。
「これ食堂から持ってきたごはんに魚。」ドアの隙間から届けられた。
「ああ、これで一食たすかった。」と私。
「それからお菓子とリンゴと。」見れば菓子の袋が五つ、リンゴ一〇個、ジュ―ス一〇本。「はい、タオルにシャツ。」
「電話代もあげる。」と一〇円玉の入った袋。私は恐縮した。騒ぎに旅館の人も見ている。入浴料さえまじめに払ってない私としてはなんともかっこ悪い。どの人が何をくれたのかわからなかった。嵐のようであった。
 車の窓を閉めて、もらったごはんの包みを開けたところへまた戻ってきた人がいた。いきなりドアの隙間から手が見えて「風呂代」と声がしたかとおもうと千円札が一枚。次は威勢のいい人が二枚、もう一人また二枚きた。
「仙台に親切なおばさんがいることを覚えておいてね。病気がどうなったか気になるから、葉書でも頂戴ね。私のところへ男の人から手紙がくると問題になるから、この人のところへね。はい住所。」
 私は言葉もなくただただおどろくばかりだった。
 湯治客を自分の車に乗せ、ボランティアで案内していた人に、どこかの社長がポンと新車を買ってあげたという話しも聞いた。
 一五日目、あぐらもかけるほどによくなって、私は玉川温泉を脱出した。
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 玉川温泉与太物語 2

再び玉川へ
 温泉へ行くといえば反射的に「ゆうが」という言葉がかえってくる。しかし玉川温泉は決してそうではない。もう二度と行きたくないという気持ちで帰ってきた。
 疑心暗鬼で入っていた。湯あたりも強烈だ。五日目頃、風呂から立ち上がって上がり湯を掛けようと三、四歩、歩いたところでいきなり意識不明となってその場にひっくりかえった。気がつくと鎌倉から来ているおばさんが水を持ってきて介抱してくれていた。看護婦を呼びに行く声もした。ほんの一瞬だったらしいがショックだった。おちんちん丸だしでおおまたびらきで倒れていたのだ。
 それから何度もそのおばさんは、きびしく励ましてくれた。岩盤の手前で休んでいたらとき「こんなとこにいたらもったいないでしょ。ちゃんとテントに入りなさい。」岩盤横の露天風呂に入っていたら「あんたの場合このふろに入っては絶対だめ。」
「もうまたの間がヒリヒリ痛くてがまんできなくて。」
「ビニールでもなんでも使ってまたを押えて入いんなさい。」それからは買い物袋のビニールに一物をしかりつつんで入っていた。
 何度も帰ろうと思いながらみんなに励まされて一五日がまんしたのだった。。
 玉川温泉の場合、家に帰ってから湯治期間と同じ期間休むといい。その間も温泉が利いていて治ってくると聞いていた。確かに帰宅してからも少しづつよくなった。
 温泉に手応えあり、箱根の塔の沢温泉の上湯へも何回か行った。そこへ来ている人に話しを聞いていると神経痛に良くきくという。気のせいか三回目にぐっと楽になった。
 だいたい温泉に体を治しに来ている人は、信じて来ているものらしい。
 柳谷さんが玉川温泉がきくならまた行ったらいいよ。と励ましてくれた。
 一回の入浴で、千数百カロリー消耗するという。栄養の心配もした。体重は五八キロ。二年前、六八キロあったのがうそのよう。それでも、私より細い人もいるので安心した。太りすぎよりはいい。
 一ヶ月の後再び玉川の人となった。風呂につかると強烈に痛む。温泉復元で、病歴が再現されるというのだ。
 秋山さんは相撲部屋から出てきたような立派な体格で子供のようなところがある青年だ。気が合って、きのことりにいくことになった。めずらしく晴れた日、久し振りの散歩に私は有頂天だった。どんどん山に入って行くと宮沢賢二の世界に入っていくようでわくわくした。きのこも少しとれた。その天気もそこまでまた雨の日が続く。

 パチンコ屋の主人
 「やむか?」と言う言葉を初めて聞いた。
 その日は日曜日で湯治客のほか観光客もおおい。上がり湯の前に先程からちょっと変わった人がいる。きょろきょろと女性を見回しては声をかけている。そして水飲み場でまたぐらを頻繁に洗っている。私の方へ来て「ここんとこかゆぐないが?」と言う、「えっ、なんですか?」と聞き返した。秋山さんが痴漢が一人きているらしいと噂してたのはこの人に違いない。
「わるいとごあるとでるんだつべ。ひっでぇ病気でもあんでねか。」などとおちんちんをもみ洗いしながら、いきなり言うものだからホモかも知れないと警戒していると、私の足をじじろ見て、
「やむか? ひっでっぇね。」と早口でしゃべるので何度も聞きかえしてようやく意味がわかった。その人は三九歳で、八戸でパチンコを経営している在日韓国人二世だった。最近この近くに七百万円で別荘を買った。そこへ二回泊めてもらいいろいろな話しをした。「だんなさん。うちの店のくぎ師やめさしたんだけど、くぎ師になる気ないかね。月二〇万出すから。」
「むずかしいでしょ。くぎは売上げにかかわるから。」
「今、妹がやってるくらいだから、だんなさんならできますよ。住むとこもありますから、来てくださいよ。」
「その時はよろしく。」
「ところで、だんなさん、英雄色を好むつうのは、ほんとでしょうかね。」
「だれでも色が好きだけど、英雄は色事の話が手柄のように語りつがれるせいでしょ。凡人には何人女がいようと、だれも気にしはしませんから。」
「なるほどね。いやいや、またちょっと聞いてもいいですかね。この頭、こんなにうすくなって、高い養毛剤使ってるんだけどいい方法はないですかね。だんなさん。」など質問ぜめ。
「女に店持たせて、この前、二百万円損しちゃった。今度ディスコをやりたいと思ってさ、土地を捜しているんで、一緒に現場見てくれませんか。」 
「この近くですか。じゃ明日行ってみましょうか。」しかし、こんな山奥でディスコが成立つわけがない。
「大船渡の漁師はパチンコに金つぎこんで、まあ、いやいや、この仕事は一番もうかるね。漁師の奥さんがまたすごいすごい。」
「奥さんって何がすごいの?」
「おやじが船でいないもんだから、売春、浮気が、派手でまあ昼まっからモーテル通い。」 前に会った朝鮮総連の幹部という人は、北朝鮮に何度も行き、国家の締め付けにうんざりして、脱退したと激しい口調で言っていた。それにひきかえ砕けた話しだ。

 帰らざる人
 玉川で会った人のなかで忘れられない人がいる。福井たかさん、三六歳。もその中の一人だった。
 岩盤への道で私は足を押えて休んでいた。さきほど、通りがかりの人にもらったばかりの、ほかほかのさつまいもを手に持っていた。
「おいも、どこでふかしたの?」と声を掛けてきたのが福井さんだった。見覚えがある顔だ。彼女を風呂場で何度か見ていた。右の乳房がなく、手術のメスの跡が脇から背中まで鮮やかにのこっている30才くらいの女性だ。
「あそこの湯気のでている穴へ入れて四〇分でできるよ。」私は蒸気が幾条も吹き出しているあたりを指差した。
「ああ、これ、一つ食べて見てみて」といもを差し出した。
「いいの?、ありがとう。足が痛そうねえ。」とても表情が明るい。
「痛くて歩けないんだ。もう一年になるからね。」と対称的に暗い表情の私だ。
「若いんだもの大丈夫よ。治るわよ。」とにっこりして言った。
「私も歩くの、大変なのよ。」福井さんは杖を使っていて、荷物は付添いの父親に持ってもらっている。その日は珍しく暖かい日で売店の前まで一緒に歩き、いものお礼にとオロナミンCをおごってくれた。
 東京の木場から来ている。方言に悩まされている私は、はぎれのいい東京言葉に親しみを感じた。「若いんだし、治るわよ。」という言葉の響きが耳に残っている。
 九月の初めに玉川温泉から戻って、一ヶ月後にまた玉川の人となった私は福井さんと再会した。懐かしかった。
「あれーっと」お互い指を差し合った。一緒だったおじいさんがいない。
「今度は従姉妹と来たのよ。」そのやさしい笑顔が私にははげましとなった。顔を合わす度に気が楽になった。
 福井さんが帰る日になった。夜の風呂場、太い柱の下で二人だけになり、「いよいよ明日帰るんだね。今度いつ来るの?」と話しかけた。
「ううん」と言って顔が初めて暗くなった。もう来ないつもりなのかなと思った。。
「あなたはやさしいから…………。」と私はいい始めたが後が続かない。
「ありがとう」と福井さんはにこっとした。
「秋山さんがあなたのこと、やさしくていい人だと盛んに誉めてたけど、一緒に暮らしてみなきゃわかんないよ、って言ったんだよ。」
「そりゃそうよ。私ってわがままなんだから。じゃお先に」といって福井さんはあるべきものが片方ない胸をタオルで隠しながら先にあがった。ドアの外に消えた。
 入れ代わりに秋山さんが風呂に入ってきた。今の話をすると、
「そりゃないよ。だってあれだよ、福井さん癌の末期で今度、来れるどうかわかんないんだよ。骨髄に転移してるんだからね。」
「ええー、そんなこと知らなかったもん。」自分のことばかり考えて話していた私だった。死んでいく人に励まされ、私からは一度も励ましたことはなかった。
 その夜、電気の消えた風呂のなかで夜がふけるまで福井さんのために何曲も歌を歌いつづけた。それから会うこともなく、半年もしないうちに福井さんが死んだと秋山さんから聞かされた。

 まぶしい湯治客 
 ある晴れた日の午後、私の車の後ろに駐車した車からおりたった女性は松葉杖を使っていた。「湯治ですか、いつきたんですか。」
「もう三日になるけんど。岩盤で足をやけどしちゃった。下半身が何にも感覚がないもんでやげてもわがんなかった。」東北のアクセントである。足は人形の足のようでぐらぐらしている。
「でもここで少しはきいてきた?」年齢は三〇代に見える。
「なんがいも玉川きてんけどいいんだか悪いんだかわかんねいな。」治るあてはないのだろう。私の病気とは違う。赤色の車の中を見るとハンドルの回りにアクセルやブレーキがついている。無線機も装備されている。
「アマチュア無線やってんの?」
「うん、去年無線の免許とっておもしろくってね。韓国の人とよぐつながってる。」まぶしい、私に力があったら治してあげたいと思う。
 また一人下半身不随の女性がきた。明るい人で若く見える。岩盤で手を貸してあげた。三〇代と思って話を聞いていたら五〇代だった。ここでは服装が下界と違うせいか年齢がわからない。まして、裸では困る。しわの数と年齢は比例しない。おっぱいのたれぐあいとかおしりのたれぐあいなどまったくあてにならないのである。
 
 場違いの客
 大阪から来た三人づれの中年がいた。見るからにやくざっぽい男達だ。私の一番嫌いなタイプである。でっぷりした貫禄と、いやらしさとなれなれしさ。ゴルフ場から出てきたばかりのようなスタイル。岩盤が一杯なので近くで私は横になっていた。ものみ気分でやってきた彼等は、岩盤を見て「メンバーがようけあつまっとるで。」とまず大きな声を張り上げた。
 初対面の私に「にいちゃあん、順番とらなあかんで、こっちきて声かけんと」と手をこまねく。親切心で言ってるのかも知れない。嫌いな人でもつきあってみるべきだと、近付いていった。話しは合いそうもないので挨拶ていどのつきあいだ。
 何日か後、車を貸して欲しいと頼まれた。近くの志張温泉まで行くと言うので同行することにした。志張温泉はアルカリ泉でしかも00000を含有しているので有名だ。玉川温泉で皮膚がただれる温泉皮膚炎にはよく効くと評判だ。
「昨日なあにいちゃん、このへんでおばあちゃんが歩いとったから、のしてってやったんや。志張温泉でな泊まりたいのに、旅館のもんが部屋がないゆうけど無理に泊めさせたんや。」という。志張の主人はぼっこで愛想がなくて評判が悪い。その主人をへこましたのは気分がいい。
 志張温泉の玄関で、入口で靴をはこうとしていた老人がいた。顔も見ずに声をかける。「じいちゃん、湯治に来てん、もう何日になるの。」
「はい、3日になります。」答える方も顔を見ないで声だけで会話が成立っている。
 その帰り、道路ぞいにある売店に寄った。奥の一段高いところにこたつがあって男がいれかわりに出ていった。すかさず、 
「カーテン閉めてなにしてたの、おばちゃん。いままで。」五〇歳くらいの店番の女の人は「いえ、お茶飲んでただけです。」と答えた。
「うそぅー、男がいたでしょ。あとで一人でくるからつきあってくれる。」
「はい、わたしでよければ、どうぞ。」私はじっとおばさんの顔を見た。まんざら冗談でもないらしい。こうやってくどくのかと関心した私でした。

 大部屋の面々
 帰る予定の一〇月一二日になった。秋山さんが「これでさみしくなるな」とぽつりと言った。私はそのことばを聞いて帰る日を伸ばすことにした。「これから食事も手伝ってやるし、帰りも運転していってやるから。おれが大部屋にいれてくれるように頼んでやるからさあ」と事務室へ一緒に行ってくれた。今回も部屋がなかなかあかないので駐車場へワゴン車を止めて、夜そっと中で寝ていた。入浴料も払わずにである。車中泊も旅館の人からにらまれて限界にきている。
 自炊棟のの大部屋へ入居が決まった。一日千五百円也。一六人で三〇畳。これでこそこそしないでもいい。
 入って行くなり、「くさいくさい。」と騒ぎ出したのはとなりのおばさん。私の布団が臭うらしい。パジャマも家を出てから一度も洗濯してない。
「ボランティアで洗ってあげるわよ。」と言ってくれたのは向かいのキリスト教のおばさん。姉妹で来ていたおばさんはごはんと味噌汁を無料で三食提供してくれる事になった。おかずは秋山くんだ。パンツの代えがないとわかるとすい臓のやまいで来ているおじさんがパンツをくれるという。
「ただってわけにはいかないよ。素っ裸で三遍回ってワンと言ったらあげるから」混浴で慣れてはいても調子が悪い。
「あれ、これ女ものじゃないの。」よれよれでとてもはけたものではなかった。
「それで髭さえなけりゃほんにいい男なんだけどなあ。役者になれる。」
「ほんと、ほんとハンサムだよ。」としつこいので、
「じゃそってみようよ。」というわけで髭をそることになった。
 東京の印刷会社の社長が馬乗りになって切れない髭剃りで剃られた。
「スリッパはかなきゃだめ、その足で入られたら畳がよごれっちまうよ。」
「靴下はかなきゃだめ。」姑、舅がいきなり十人いるようなもの。
「また腹が出てるみっともない。」
「少しは父親らしくしっかりしなさい。」
 
 腰の方は相変わらずでもっと長くいる方がいいといってくれる人も多かった。しかし、中には近井さんのような人もいた。
 風呂場で隣合せた時のこと「ああヘルニアね。おばちゃん病院の付添いをしてたからわかるよ。一寸見せてごらん。やっぱりこの骨だね。うん、これは温泉じゃなおらんね。病院いかんといけんね。あんた、どっからきたの。」
「藤沢。」前も隠さず、顔をちかずけて話す中年の女性だ。
「そう、藤沢、知ってるよ。おばさんねなんでも知ってるの。長いこといろんな小説家の家でお手伝いさんしながら勉強したからね。川端やすなりの家でもお手伝いさんしてたからね。犬がいてね、名前何ていったっけね。藤沢ではだれだったかね」
「宮原昭夫は知っていますか。」
「よく知ってるよ、芥川賞とったね。題名は、ええと」
「だれかが触ったでしょ。」
「あんたもくわしいね。よく知ってるね。おばちゃん小説書いてるからね。宮原さんへも前に手紙書いたよ」
「宮原さんは私の義理の兄に当たるんだよね。」
「ええー、宮原先生と親戚なの。知ってるよ。おばさんねなんでも知ってるよ。手紙だしたこともあるよ。でもね宮原先生にはいわないでね。そうね。私ね、千枚原稿書いて、いま出版社に送ってるんだけどね。まだ返事がないんだけどどうだろうね。」
「出版社には原稿がたくさん送られて来るっていうからね。だれでも一生に一本は大作がかけるっていうんだよね」
「そうね。そうね。ところで原稿書くとき、ますにぜんぶはいってなくてもいいんだよね。すこしは食み出ててもいいんだろうね。」
「校正記号を使ってればいいんじゃない」 
「校正記号ね。どうだろうね。自費出版っていうのはどうね。もうかるかもわからんね。一回出すのにいくらぐらいかかるの。」なんでも知ってるのかと思ったら、あとは質問ぜめ。「あのね、右翼ってよくいうけどあれなんのこと。」といったぐあい。
 秋山さんが近井さんに「ぼくも小説かきたいとおもっているんだけど、玉川温泉のことを小説にしたらどうかなあ。」と言ったら「玉川温泉の与太話しなんか小説になんかなりゃしないよ。そんな簡単じゃないんだよ。おばさん忙しいんだから。」と相手にされなかったそうだ。
 息のつまるような一週間だった。
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