坐骨神経痛闘病記 最新事情

これまでの経緯
1983年から重くなった腰痛は2000年を迎えてもまだくすぶっていた。
 大学時代アルバイトをやっていたとき、重い荷物をトラックにのせていて腰をいためたのが始まりだった。それから、何度か痛みに襲われたが、たいがいは数日休んでいればよくなってきていた。
1994年3月中国留学から戻って気功教室を主宰した。週7箇所で教えた。
 一回2時間、たっぷり練習をするので、身体はきるみるよくなっていき、風邪もひかず、腰痛も起きなかった。今までで一番身体の調子がよかった。


1999年秋  膝を大怪我
 そして1999年の秋も深まって台風の季節。藤沢周辺は最近は台風の被害はないので、我が城プレハブも安泰だったが、強化することにした。

 一念発起して二階を足すことにした。あちこちで拾い集めてきた材を使ってまず屋根をつけた。柱が弱かったので途中で屋根が倒れ必死で押さえたという一幕もあった。一気に壁や窓ができた。ところが床を作っている最中に回転する電気のこぎりの歯が左膝にあたり8針もぬう怪我を負った。危なかった。もし、勢いがついていたり角度が悪かったら足を切断という事態になりかねなかった。年末にはなんとか、ほぼ完成にたどりついた。
 
199年冬 年末年始は車で釜山にいった。久しぶりのコースでなつかしかった。釜山から安東に汽車で行ったが、吹雪が舞いとても観光気分ではなかった。安東の伝統民族村は正月休みを利用した観光客であふれていたが、みんな自家用車で、バスに乗り合わせたのは数人であった。韓国も自家用車の普及率は日本並なのである。
 釜山の日本語学校へ訪問すると大変な歓迎をうけ、授業にも参加し、交流を深めることができた。
 帰りには広島の気功愛好者の西尾さんを訪ね、一般道を帰ってきた。途中寒さのためか右足が痛んだ。

2000年春 神経痛の再発

 ノストラダムスの大予言やコンピューターの2000年問題もあっけなく通り過ぎて、不景気ではあるが、安穏な時代が続いている一月10日。
 いい流し台が手に入ったので、二階の部屋にあげようとしたが、とても重くてあがらない。工夫してようやくあげたところで、わき腹が痛みだした。それ以後次第に右足に痛みとしびれが出てきた。数時間車を運転したときとても痛かったが、がまんできる程度で家に戻ってからは痛みもやわらいだ。しかし次の日から本格的に痛みはじめた。これまでいきつけの藤原整骨院に行くのが一番だと考えて1月15日朝早く山梨県韮崎へ車を運転して行った。右足の痛みなので、アクセルを動かすたびに痛みがきつく、こきざみに休みながら走った。
 藤原整骨院に朝6時前に到着した。待合室はすでに空いていて蛍光灯がついている。受付に用意されている番号札をとった。8時に受付が始まり、9時、呼ばれて診療室にはいると、うさぎの筋を研究してこの方法をあみだしたという老先生はみえなくて、その技を受け継ぎ、柔道整復免許をもつ息子さんが一人で治療していた。椅子に座って背中を見せると、腰のあたりを背骨に沿って指でたどって言った。
「あなたのは、腰の筋がはずれて痛みがでているんです。ここがはずれています。ベッドに横になってください。」「これは坐骨神経痛でもなく、ヘルニアでもありません。ですから、牽引やマッサージなどをしても治りません。」「いつから痛みがでましたか。」「一週間前くらいから」「いまから筋を本来の位置に戻しますが、そのとき人によってはとても痛いです。あまり痛くない人もいます。後で痛みがでることもありますが、必ず治ります。もし、後で余計に痛くなったと文句を言う人もいます。そう言う場合は治療しませんが、どうですか。」「いや、大丈夫です。」「それではこれから数日間はお風呂に入らないでください。タオルでしぼってふくのはいいです。23日間は静かにしていてください。はずれるのが癖になる人もいますので、とにかく安静にしてください。一週間後に予約をとりますので、また来てください。」
 帰りも運転はきつく、10分きざみで休みながらもどってきた。夜痛みがでて眠れない日もあったが、日中は何かをしていた方が気がまぎれるので、歩いたりしていたが、一週間たってもほとんど変わらなかった。このまま治らなかったらどうしようかという不安がでてくる。今度は運転はつらいので、運送会社に勤める友人の仕事のトラックに便乗して連れていったもらった。友人の都合で 次は10日目に行った。5時半には到着し、待合室のエアコンのスイッチをいれて、持ってきた毛布にくるまってソファーで仮眠した。
「筋はちゃんともどっています。このまま安静にしてもらえば、大丈夫です。」
そう言われて帰ってきたが、痛みとしびれは変化ない。友人のトラックの助手席に座っているときも痛みがでる。筋ははずれていないと言われてほっとしたが、痛みは変化なく、しびれは更にはげしくなっている。もう寝ているよりほかない。それからは極力安静に寝ていた。ところが23日経ってもあまりよくならなかった。
もう一度友人に頼んで2月になってから藤原整骨院に行った。「大丈夫ですそのまま安静にしていてください」という結果だった。2月末にはそれでも痛みはほとんどとれてしびれが残るだけとなった。3月からは、気功をやりはじめると、少しずつしびれもとれてきた。3月中旬にはすっかりとれて無事シンガポールに出発できた。
右足付け根の筋肉がはっていて、足を組んで座ることはできないが、痛み、しびれはない。毎日少しずつストレッチングと気功をやっているうち、4月中旬に は結伽趺坐も数分ならできるようになった。いろいろな人が治療師や、治療所を紹介してくれたが、先生から言われた時間より倍くらいかかったとはいえ、藤原整骨院の言うとおりにしていたら治った。

2000年初夏 ようやく痛みもとれシンガポールからスマトラ島へをまわってきた。しかしまだまだ体力は弱っていたようだ。
6月8日金曜日、朝起きると腰のあたりがやけに重く、たちまちぎっくり腰状態に陥っ た。原因は自宅の部屋増築のため、今まで使っていた部屋にあったものを別の部屋に移した後、ソファーベッドに寝ていたためかもしれない。前の日に中腰でパソコンの分解などをしたことが引き金になっているようである。1、2月の右足の痺れを伴う痛みと はあきらかに違う、腰の痛みだった。不用意に寝返りをしようものならたちまち動けなくなってしまう。しかし、昨年の3月頃の状態と同様で、しばし安静にして寝ていれば回復するだろうととりあえず、痛み止めを飲み、寝ていたところ今回は次第に痛みが取れてきた。
 腰の運動などをしていたがまたまた痛みがぶりかえしたのだ。それから1週間ひたすら安静にしていたのだが、痛み止めのジゾペインを飲んだため食欲が出ず、一日一食状態になり、見る見るうちに肉が落ち、スタイルがよくなった。 ふともものあたりから下腹部がすっきり、身も心も軽くなって、すっかり痛みがとれた。
 ちょうど入梅に入り、天気も悪い。これから徐々に体力をつけるようにしようと思った。

佐渡からカナダ
 久々に佐渡へ行くことにした。砂療法をやったりして、自転車で島内を巡った。体力が異常に落ちていることを実感した。なんとかしなければと切実に感じた。このままでは車椅子生活になってしまうかもしれない。そんな気持ちでカナダへ向かった。

2000年夏 カナダ バンクーバーでの体力づくり

日本では酷暑という時期カナダではそよそよと春の気候である。現地の人は暑いと言うが我々には寒い。
 2000年を迎えたバンクーバーは30年前初めてその地を踏んだ当時とは大変な変わりようであった。ブリティッシュコロンビア大学行ってみると、生徒の大部分は香港、台湾などを中心としたアジア系で占められているのである。
中国系移民ががバンクーバーの人口40パーセントにまで膨らみ、さらに増え続けている。

クイーンエリザベス公園は、花や木立が美しいがその一角で毎日気功、太極拳、健康体操など中国そのままの光景が見られる。台湾からの外丹功の他、剣や扇を使った運動が華やかである。最近徐々に勢力を伸ばしているの法輪功も、大学生や台湾系住民が大陸の暴力に抗議をする形で動いている。
太極拳は今年65歳になる馬さんが、30年培った強力な実戦太極拳を指導している。「老人のやる太極拳と私の太極拳は違うんだ」と、ゆっくりした回転運動から目にもとまらぬ裏拳が飛び出してくる。「手足だけではなく腰の動きをつけることによって破壊力を生み出す」
そのおもしろさにつりこまれてしまった。
午後は同行者と街を歩く。ここではテレビもラジオも新聞も見ない。車もバイクも自転車も使わない。ひたすら歩きつづけるのである。
 海岸に浄水場の処理水を導く長い歩道があった。往復8キロある。夕方歩き出すと、当初は足腰がつらかった。みんなで楽しい話をしながら歩いているうちに、足腰の感覚が変化してきた。夕日が傾き始め太陽が水平線に輝き、夢の中の情景のようだった。ふと気がつくといつもとはちがって、疲れを感じない。歩いたために足腰がなめらかになっていた。こんなに歩くのはひさしぶりだった。
  その勢いでスキー場のある山に徒歩で登ることになった。だらだらと続く坂道で相当まいってきたが、励まされてがんばった。往復数時間、きつかった体も自信に変わっていた。
 歩くと言うことがよいとはわかっていた。ところが、楽しいと感じなかった。今回は楽しいメンバーに支えられて楽しさを実感でき、歩くことによって、神経痛を予防できるという自信がでてきた。
 35日間のカナダからの帰国後も毎日徹底的に歩き、次第に筋肉を取り戻し秋には見違えるほど、しっかりしてきた。

10月には大山へ一気に登り、ほぼ完成の域に達した。

 99年1ヶ月2000年3ヶ月と神経痛の再発に苦しんだ。歩くことで神経痛なしの生活をめざし、2000年12月は香港へ、徹底的に町を歩いた。続いてタイ・ラオスへ行った。

2001年春 45日間のインド・ダラムサーラーへの巡礼の旅。ダライラマにも会うことができた。

2001年夏 45日間の3回目のチベット旅行。

2001年夏 富士山へ登る。それまで1度も登ったことのない山富士山の頂上に立てたことは、神経痛との闘いの勝利と見てもいいだろう。
 山の天気は変わりやすい、8合目くらいから雨にかわり、横殴りにふきつけてきた。登山道にはへたって倒れこんでいる人や、酸素の携帯用ボンベを吸っているいる人もいる。つぎつぎと追い抜かしながら、ついに頂上に。天候が悪いため景色は見えず、昼食を食べると早々に下山。駆け下りるように降りると、標準タイムよりもはるかに早く下山できた。

人間の体は常に変化している。歩けなかった自分が富士山へ登った。山登りのこつを体得したこともひとつの理由だが体が変わったことも事実です。

2002年冬 45日間の南インドの旅。サイババのアシュラムは勉強になった。

2003年冬 エジプトへピラミッド瞑想の旅。


2003年春 アメリカ ニューメキシコ 


 ここ何年かをふりかえってみると、旅行というのが生活の中心になっている。うらやましいと思われるかもしれないが、神経痛で、あちこち痛み、日本で療養するより、生活費の安い海外でというまあ、経済と時間を有効に利用しているだけだと私は思っている。海外ではただ、ひたすら歩くしかない。それで体がよくなればいくらかかっても惜しくないが、実際は航空券も安くなり、こずかい程度で海外に行くことができる。
 たばこと酒をやめられない友人は一ヶ月、たばこ代と酒代で、3万円はかかる。私は酒たばこはなしなので、その分を航空券代にあてたとしても、年間36万円、タイに6回往復できる金額である。

 もちろん、海外で安く生活できる方法は体得しなければならない。語学力も重要だし、発想の転換も必要だ。
 自分の人生だれのためでもないのだ。縛られて生きるのは本来の姿ではないと思う。

キーポイント


じょうけん‐づけ【条件付け】  条件反射または条件反応を生起させるようにすること。古典的条件付けと道具的条件付けとがある。

どうぐてき‐じょうけんづけ【道具的条件付け】 動物が環境に対して特定の反応をした時、それに餌を伴わせる(強化)と、次の機会にその反応が生起しやすくなる。このような条件反応は餌をもらうための道具となっているので、これをパヴロフの古典的条件づけと区別して呼ぶ用語。オペラント条件付けともいう。

せんにゅう‐かん【先入観】 初めに知ったことによって作り上げられた固定的な観念や見解。それが自由な思考を妨げる場合にいう。先入見。先入主。「先入観にとらわれない」
せんにゅう‐けん【先入見】先入観に同じ。

きゃっかん‐てき【客観的】 特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。

じこ‐あんじ【自己暗示】 〔心〕自己の有する表象だけでその対象の現実性を信じる意識が生ずること。
じこ‐いしき【自己意識】 〔哲〕(self-consciousness) 自己自身に関する意識。諸体験の統一的・恒常的・自同的主体としての自我の意識。自意識。自覚。

じが‐いしき【自我意識】 〔心〕(self-consciousness) 自己について持っている意識。能動性の意識、単一性の意識、時間が経過しても同一であるという意識、外界と他人に対して自分が存在しているという意識の四側面から成る。

自己規制

きょう‐いく【教育】 教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。「学校教育」「社会教育」「家庭教育」教育を受けた実績。「教育のない人」

きょう‐よう【教養】 教え育てること。(culture イギリス) 単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。「人文主義的教養」

固定観念こてい‐かんねん【固定観念】  固着観念に同じ。
こちゃく‐かんねん【固着観念】 〔心〕(fixed idea) 絶えず意識を支配し、それによって主として行動が決定されるような観念。強迫観念とは違って病的な感じはない。過価観念。固定観念。

おもい‐こみ【思い込み】  思い込むこと。固く信じて疑わないこと。「思い込みの強い男」
おもい‐こ・む【思い込む】  自五 深く愛する。強くひかれる。 固く決心する。 すっかり信じてしまう。深く心に思う。
あべ‐の‐せいめい【安倍晴明】 平安中期の陰陽家。よく識神(シキガミ)を使い、あらゆることを未然に知ったと伝える。「金烏玉兎集」「占事略決」などの著者。伝説が多い。

れっとう‐かん【劣等感】 自分が他人より劣っているという感情。「劣等感をいだく」 優越感の反対。

コンプレックス【complex】 〔心〕心の中のしこり。「感情をになった表象の複合」と定義されているが、一般には、抑圧されて無意識のうちにあるものをいい、病的行動の原因となることがある。精神分析の用語。特に、インフェリオリティ‐コンプレックス。
見栄、体裁、虚栄心
悪習慣 悪循環
比べない 比較しない
うらやましい
自尊心


幸せになるために
人間がはじめてこの世にでてきたとき、誕生である。
 母の胎内で、羊水につかっているとき、まるで魚のように浮かんでいた。時期がやってきて狭い産道をやっとのことで通り抜けていきなり、空気の中に産まれる。呼吸がはじまると、産声をあげ、見えない目で周囲を見渡す。
 まだ自分が誰であるか知らない。用意された名前を告げられ、人間としてのスタートを切る。このとき、狼の母親に預けられれば、狼として成長し、イルカに預けられればイルカとして成長するであろう。インドで狼に育てられた子供が発見された例がある。その子は狼になりきっていて、人間にはなつかなかったという。人間にも刷り込み現象があるのかどうかわからないが、眠れる森の美女が眠りについて、起きるとき最初に見た王子に恋をしてしまうという物語も象徴的である。
 刷込みというのは広辞苑によれば、 多くの動物、特に鳥類において最も顕著に認められる学習の一形態。ローレンツが最初に記載。孵化後間もない特定期間内に目にした動物(普通は親)や物体が雛に固定的に認識され、以後それと同じ物を見ると機械的に反応する。刻印づけ。とある。
 産まれるときは誰も不幸を望んではいない。祝福されて産まれてくるはずである。
 ところが、身体に欠損があるとか、家庭内の問題であるとか、生まれながらにして不幸の影がつきまとってしまう例もある。
「さっちゃんの魔法の手」という絵本がある。先天性四肢欠損症で生まれた女の子の話である。女の子の手には指が2本しかなかった。さて母親はどうするでしょうか。一生涯手袋をさせるという例もある。

劣等感、
車が好きな少年が、待望の新車が手に入った。有頂天になって乗り回していると、いつのまにか更に性能がよくてかっこいい車がでてくる。信号で並んで、見劣りする自分の車を見たときやりきれなさを感じた。
やっとのことで彼女ができてよろこんだのもつかの間。友人が自分の彼女の数倍もきれいでスタイルのよい女性とつきあっているのを見た。目移りしてしまう自分があった。
一人旅をしていると、いい出会いもあるが、仲のよい男女を見てうらやましくなることもある。