立ち方の練習

姿勢は正しくなってくれば大概の病気は回復に向かうといってもいいくらい重要です。しかし、気功でいう正しい姿勢というのは一般に言う正しい姿勢とはちがいます。
鏡で見て研究してください。
     

その場に立ってください。両足は肩幅くらいに開いて足先は平行に、足の指で軽く床をつかむようにして密着します。股関節をわずかにまげ、膝を少し前に出します。両手は左右に垂らます。舌先を上の歯の根元につけて、目は自然に遠くを見ます。顎を引いて、首の後ろを真っ直ぐに伸ばし、頭のてっぺんが天に向かって伸びて行く感じで、肩は少し前におとし、全身の力をぬきます。
 肩に力が入っていませんか。肩を上げ下げしてリラックスして下さい。
まっすぐに伸びた背骨の上に頭がバランスよくのっています。
 シャワーを浴びているつもりになって下さい。上をみるとお湯が落ちて来ます。顔、胸、腹をお湯が流れて行く情景を想像します。

気功の3要素は調身、調息、調心です。


 調身とは、姿勢と動作です。姿勢によって痛みが強くなったり弱くなったりする感覚はだれしも感じたことがあるでしょう。姿勢が悪いと内臓を圧迫し、気血の流れが悪くなります。調息とは呼吸です。調心は意識や神経の働きを調節することです。
 精神統一というと、緊張することだと思う方もあるでしょうが、気功では緊張とリラックスが同時進行になっています。体全体の力をぬいて、気の通りをよくしますが、ゆるんでいるのではなく充実しているのです。肩のはるような緊張ではなく快い充実感です。
立っているとき姿勢は維持したまま力をぬいていきますと、重力と釣り合ったような感覚が生まれます。背骨が積み木のようにバランスよくたっている感じです。
 頭はまっすぐになった背骨の上に収まっている。気をつけの姿勢ではなく背中のちょうどへその裏側がへこんではいません。
 下腹を少し後ろへ引いた状態。肩は少し前にきて腕は大きなお盆をかかえるような感じです。


 站椿(たんとう)の方法について      

 大成拳(意拳)の站椿


 入門站椿
 
1.入門椿(上下の動きの探求)
 足は肩幅に平行に開いて立ち、大地を足の指で掴むようにする。
 背骨はまっすぐ、壁を背にしているようなつもりで身体の軸を保つ。
 舌は上顎につけ、歯は軽く噛む。
 呼吸は自然に、長く、細く、ゆっくり行う。意識すぎないようにする。
 視線は遠くを見るような感じで、意識的に視線を強張らせたり、半眼にしたりしないようにする。
 更に姿勢を保つために両膝の間、両肩、顎に挟むように4つの球を意識するとよい。この球を薄いガラス製のものと想像して力を入れすぎて壊さないように、落とさないように意識する。
 
 両手は太股から拳2つくらいあけて左右に、指先を下に向ける。


小舟に乗って立っており、腕がぐんぐん下に伸びていき、湖底の泥の中に手がすっぽり入り込み、抜けなくなった状態をイメージする。腕を縮めようとすれば、小舟が沈むのででぎりぎりのところで再び腕を伸ばしそしてまた縮める。

2.扶按椿
 手の位置を両腰骨の前方に、掌を下に向ける。
川の中に立ち両手で川面に浮かぶ板を押さえているイメージ。板は押さえすぎては沈んでしまうし、押さえ方が足りないと流れる水流に流されてしまう。ここでは板の浮力を掌に感じ、左右の横の方向を感じ取ることができる。

 たんとう功概観

 小林内勁については、別の項にあります。
 小林内勁は馬歩たんとうを基本功としています。その姿勢は膝を深く曲げるため、相当にきついという印象なのです。(膝頭が足先より前に出ないように110度くらいに膝を曲げる。膝の角度つまり膝から上の太ももと、すねとが90度から120度にらいなるとうに曲げる。床面との角度ではありません。深くすればするほど効果が出るのが早い。)
 しかし、実際には内勁とよばれる内からの力が生まれてきて、体が浮くように感じてくるものです。将棋の駒を積み上げたように、重心のバランスがとれてくると、静止した状態で力はいらなくなってきます。
 もちろん、足腰の筋力は自然にめきめきついてきます。
 自然の気の規律に任せて一切意念を使わないというところが、特徴です。
 小林内勁一指禅は80年代に入って流行してきたものですが、たんとう自体はすでに多くの種類が広まっていた。



 たんとうは武術にルーツを持つが、健康法として注目され上海市気功療養所では1950年代に自然式、三円式や下按式のたんとう功が、療法としてとりいれられていた。
 その他にも、全国で両手を時計の針のように45度に開く銅鐘式(定勁法)を始め、巨賛法師の仏教系の小練形、太極内功、健身とう功、意気功など、武術の流れを組むものが盛んに行われてきた。
  やはり1950年代に形意拳の王こうさい師が北京中医研究院などで、指導していた養生とう(たんとうこう療法)がある。王こうさい師は文化大革命の前の1963年に亡くなり、多くの弟子が伝えている。
形意拳のたんとう功にスポットをあて、王こうさい自身の筆になる、養生とう簡介(とうは木へんに庄)健身とう漫談から紹介します。
  王こうさい(こうは草かんむりに郷、さいは上が文、下に而)1887年−1963年 解放後北京中医研究院、保定中医研究院でたんとう功療法を指導していた。


養生とう簡介   1963年6月 『健康報』に掲載されたもの

 養生の術の歴史はゆうゆうと久しく、その方法はとても多い。鍛練方法は違っていてもその目的は病気を避け老化を防止し、長生きすることにある。数十年にわたる私の養生術の学習と鍛練を振り返ってみると、最も学びやすく簡単で効果が絶大なのはたんとう(養生とう)であります。(注 たんは站 とうは木へんに庄)
 たんとうの姿は。立って行う站式、座式、臥式、行走式、半臥式などに分けられる。 それぞれに数種から数十種の姿勢がある。姿勢は多いが行走式を除いて、以下の共通点がある。
 練功を始めるとき目を閉じ、精神を集中、気を静めます。それからゆっくり姿勢を整え、体と足をそのまま終わるまで動かさないということである。
 初めての人はまず站式から始める。
 站式の場合、両足を肩幅に開いて、両足は八の字に開く。尻を椅子に座るようなかんじで脚は湾曲させる。
 両手を、眉の高さより低く、へその高さより高い位置で体から離し、33センチ以内で構える。腕は半円を描き、脇の下をあける。左右の手が交差したりせず、右手は右半身に左手は左半身の範囲で動作する。
 毎日3回、初めは10分ずつ、次第に1回の時間を40分まで延長する。以下たんとうについてお話しします。

一、養生とうの起源と作用。
 養生とうは中国の形意拳をもとにしてできたものです。
 形意というのは
  以形取意、有意象形、意自形生、形随意転。という意味で、形体と精神を同時に鍛練する基本的運動なのです。
 その基本作用は
 中枢神経に休息を与え、血液循環を促進し、新陳代謝を系統的に増強する。
 中枢神経の充分な休息は身体調節機能が増強される。血液循環と新陳代謝の増強は全身を充分に潤し、生命力が旺盛になり、病気をさけ、長寿をもたらす。

二、養生とうの特点
 健身の術はその数は多く、動功と静功に大きく分類される。一般には動功は身体を鍛える体育運動と考えられ、静功の多くは内在する真気を鍛練し、精気神三宝を充実させると考えられている。
 たんとうは精神と身体を同時に鍛練する方法である。主な特徴は呼吸に注意せず、丹田を意守しないことである。
 一定の姿勢をとること、動と静のバランスをとること、虚実の調節配合と適当な意念活動によって、腹式呼吸の要求を満たし、入静の目的を達成できる。練功中姿勢の形を追求するが、それに拘泥はしない。意念を言うが執着はしない。
 体力鍛練になる。また簡単に行える。把握も容易である。いつでもどこでも、立っても座っても、寝ていてもできるのである。

三、姿勢と時間の掌握
 養生とうは静の中にも動を求め、動の中にも静を求める功法である。初めて行う者は決められた姿勢をとるわけだが、姿勢と練功の時間の長さは本人の体質、体力の有無、病状などによって異なるもので、自己の忍耐能力をこえるようなことはしてはならない。
 一度決めた姿勢は、途中で変えないこと。
 姿勢が安定して、血液循環速度が早くなり内部の運動が起こってくるとき、突然姿勢を変更すると、内部の運動(内気と内部に生まれる力の運動)が乱される。師は
 大動不如小動、小動不如不動、不動之動才是生生不己之動 と教えている。
 (大動は小動にしかず、小動は不動にしかず、不動の動は生、止まることのない動を生む。)
 本当の内部の運動法則が掌握できた時点では、身体の姿勢の変動にも内部の運動は少しも減らすことなく、好きなように姿勢を変更することができ、一切姿勢による制限は受けなくなる。
 師はそこで
 神意足不求形骸似
 と言っている。この意味はそういうことなのである。
 練功の時間の長さは自分で決めるのがいいのである。全身が気持ちよく、軽く楽ならば時間を長くし、疲労感や心が乱れたり、気分が優れない場合は練功を終わらせ、強制してはいけない。

四、放鬆と緊張の問題
 たんとうは無力の中での有力、不動の中での微動、微動の中での速度の早い運動を求めるものである。
 身体はゆるまり、血液循環が早まり、気力が増強されてくる。このときもし力(筋力)を使えば緊張して全身の内在する力が消え、はなはだしきは循環障害を起こす。 精神的な無形の力を使うのであって、力(筋肉の力)を使えば内部の運動の本質は失われる。
 有形即破体、無形即神集 と師は言う。
 身体が完全に弛緩し、精神が完全に収斂すれば姿勢は不出来でも精神は高まることが、続けていればおのづとわってくる。

五、筋肉鍛練
 筋肉若一 が次にでてくるものである。上述したことと密接な関係がある。姿勢を変更することで、筋肉の運動能力は増強される。このたんとうによる鍛練がなければ疲労に耐える能力と持久力はついてこない。
 田だし、筋肉鍛練と同時に精神修養も忘れてはならない。形をもって本とし、意をもって用となす。こうして運動を強めれば疲労が軽減できる。だから鍛練と休息は同じことだと言える。
 適当な練功状態によって知らず知らずのうちに持久力と疲労に耐える能力が身につく。また、鍛練を強化すると同時に大脳と心臓への負担を軽減することに注意すること。気持ちよく無理をせずに力をつけていくのが原則である。

六、調配原則
(一)姿勢調配
 意識の確率の上に姿勢の変化を行う。逆に言えば形式は意識を改変する。
 意自形生、形随意転。という基本原理の内にある。
 本人の具体的状況により、一定の範囲内で姿勢の高低、左右のバランス、体の位置関係などを調節する。また、身体だけを鍛練するか、精神だけを鍛練するか、あるいは身体、精神を同時に鍛練するかなどを選択して行う。頭、手、肩、肘、膝、関節など体の各部には双方同時と片方づつ、弛緩したりと緊張したり、虚と実、軽いと重いなどの別がある。微妙な部分もだいたいこのような観点から調節する。
(二)内臓調配 
 意念の作用によっての心理変化は生理作用に影響する。生理作用はまた心理に影響する。本人の訴えによって内臓を意念することで暗示効果を持たせる。必要に応じて体の1部を操作することで、該当する内臓に対して刺激を与える場合もある。しかし、練功が深くなればこういった問題は重きを失う。

七、雑念を克服する
 身体と意念には身体の鍛練と同時に意念を調節するという関係がある。
 このため、雑念の克服は比較的重要なことがらである。しかし、実際は人の思考範囲はひろく、とりわけ大人は雑念が多く、排除するのは容易でないと言われている。このため、多くの練功者が困難な問題ととらえている。入静を追及しているうち知らず知らずにあせりを生じ、かえって精神的負担を増大して、入静をしなければならないという考えが雑念の働きをして、いたちごっこにおちいることがある。練功を始めた人には歴代の養生家が編み出した、物に意識を集中したり、意識を1点に固定したりする方法が雑念を追い出す助けになる。
 しかし、実際は、起こってくる雑念にとらわれず、自然に任せて排除しようとせず、来るものは拒まず、去るものは追わずでいれば、次第に情緒安定にして入静の境地になっていくことを体験している。
 雑念が強烈なときは意識的に排除せずどんどん吸収して、自身が巨大な溶鉱炉になって宇宙の万物も溶解させると想像すると、自然に入静状態になっていくものである。 以上の紹介は参考程度であって、自らの練功鍛練によって、その神髄を体得できるのである。             翻訳 方丈光林

さて続いて王こうさい師による 「健身椿漫談」(健身椿は、たんとう功、渾元椿、養生椿などと呼ばれる。)の翻訳文になるわけですが、この文は王こうさい師死後20年たって発表されたものだそうです。

 「健身椿漫談」     


一、序言
 健身椿は鍛練の要素を含んだ基本的功法で健身の術の一種である。姿勢と動作が人体の生理と組織とに合致するように組み合わされているために、高級中枢神経を充分に休息させることができ、また身体を好ましい状態で鍛練できる。臨床経験から病気の予防と治療の効果が実証されている医療技術でもある。芸術的鍛練とも言える。
 この文は一緒に学んでいる者のために書いたもので、世に問うために書いたのではない。わかりやすく要領を書いたのであり、詳しい内容ではないことを断っておく。 直接の口伝心授でも短い時間で体得するのはむづかしいことはだれでも知っている。ましてこのような文章で伝えることが完全無欠でないことは言うまでもない。今後、検討を重ね次の機会には更に書きかえなければならないだろう。
 私は幼い頃から病気が多く、薬で治らずついに医者に見放され、健身の術に活路を求めた。長じてからは、各地を旅行して師を訪ねあるいた。健身養心の学問と技術を貪欲に学びながら、その無用の部分を取り去り有益のところを身につけ、広く多くを吸収したのである。その後、多くの師や仲間に恵まれ、お互いに教えあい切磋琢磨して、10数年にわたって研究を続けた結果、実践のなかからこの健身の術を体得した。 「黄帝内経」中の理論と武術の功夫の結合によって、この健身の術は完成したのである。
 姿勢は歩行でも、立っても、座っても、寝た姿勢でもいずれでも良い。ただし立式が主である。そのため健身椿という名前になった。(渾元椿とも言う)
 私は現在70才になり、何も財はないが、健身の道の心得がある。保健治病の効力によって広く人民大衆に奉仕できる方法である。わが国の健身の学は、系統的な文字の記述はない。断片的に古典のなかに見受けられるが、ほとんどが口伝心授で伝えられてきたものである。私は学識が浅く、この健身の術を詳細かつ正確に文字に表す能力はない。ここに出す文は不完全で、漏れたところも多く、欠点や間違ったところの多いものである。同好の皆さんが、練功の中で訂正補足していって欲しいと切に望むものである。

二、健身椿の意義と作用
 健身椿は医療学術であるが、医療体育運動でもある。病気治療、病気予防の効果がある。健身椿を行うにあたっては年齢性別、身体の強弱など一切の制限はない。行う時は、姿勢や繁雑な注意事項、準備姿勢や、動きに意識を使わないようにして、大脳に充分な休息を与えながら、身体を適度に鍛練する。静の中に動が生れ、動の中に静を求める理である。
 神経系統の機能が調整される。血液循環が促進される。各系統の新陳代謝が促進される。各器官の機能が回復され増強されるなどの利点がある。健康を保持し、病気を治療する効果が顕著である。50年の経験の間に一人として副作用などもなく練功した90数パーセントの人に効果が認められている。
 さらに呼吸能力と排泄作用を高める。これは古人のいう、精を練り、体内の洗浄ができるという理である。
 自力更生の運動であるというのも特徴である。体力のない者は鍛練を通して病気を解消し、健康を回復できる。健康の者は更に健康になり、理知を体得できる。
 一般の運動とは異なり鍛練と休息が統一された運動である。練功中に休息でき、休息中に練功できるという方法である。このため、各器官と中枢神経の協調が行われ、中枢神経と末梢神経の調整作用が発揮される。

三、注意事項
 健身椿は精神を鍛練する方法でもあることを忘れてはいけない。激しい感情や、焦りや損得勘定や射幸心などは意志の弱さ、品位の低下の現れであるからとおざけなければならない。
 特に病気治療で行う場合は、薬も効かない慢性病の人も多い。弱気を起こさず、積極的に鍛練し、治療は消極的にすることである。気持ちを明るく持って、まず病気と闘うための力を蓄えて、反攻の準備さえしていけば、やがて病魔を退散させることができるのである。
 もし、悲観して失望していれば生気はますます弱まる。心を愉快にしなさいと医者が言う道理である。
 健身椿をやろうという者は、まず心を愉快に保ち、心を虚にして站椿の意義を理解し、辛抱しながら熱心に鍛練することだ。鍛練によって気持ちは輝いてきて、さらに長期の鍛練が可能になり、自然に健康を回復する。
 健身椿を行うときは心を安定させ、雑念を除去して行う。
 (神不外溢、力不出尖、意不露形、形不破体。)
 精神は軽くゆるんで伸び伸びとしている状態にしなければならない。
 意志の働きは表に浮き上がらずに奥に蓄えられていなければならない。
 力は穏やかにして見かけ上はないようでなければならない。
 (無動不機、無機不趣、虚霊守默、而応万物。)
 学び始めの者には理解するのは難しいが、実際はやさしい現代人の道理である。枝葉にとらわれることなくその言わんとする意味を知ることである。
 意は体内に体全体として存在する。局部に偏って全体の統一を乱してはならない。 外部の動作に気をとられて内部の失調をまねいてはいけない。
 大自然の中でシャワーを浴びているような解放感で、全身は軽快に緩んで、心ははればれとして楽しいという状態でなければならない。
 更に四容五要に注意する。
 四容は、頭部直立、目線正直、精神壮厳、声音安静、五要は、恭、慎、意、切、和である。
 人や物事に対して恭敬の念を持ち、慎み深くなければならない。
 意識をよくめぐらせて実直に、どんな時も強がりをいったり、弱音をはいたりしない。話しすぎはいけない。控え目にして誠実に心掛けることである。
 以上、心の持ち方であるが、常に善意を持っていること。行動は子供のように純真で、人に対しては親の心情で当たるのがいいのである。
 鍛練に当たっては(只要神意足、不求形骸似。)精神と意識が正しければ、形を真似なくてよい。ということができる。
 健身椿のやり方は病気によっても、人によっても異なるものである。病気の症状が違えば、関係する神経、筋肉の部位も異なる。患者の生活習慣、精神状態などを配慮してやり方を決める。患者本人に適合した姿勢式と運動と休息の時間の配分などを決めて、身体の負担を軽減したり増やしたり調節する。
 突然止めたり始めたりしてはいけない、注意を守り慎重に鍛練すれば不正常な現象の発生を避けることができる。

 人によっては鍛練をはじめた当初、懐疑心を抱いたり、幻想を抱いたり、意のままに勝手に動いたり、執着心を持ったりするが鍛練を重ねることで解決するものである。注意が守れなくてもこだわらないで、気持ちを愉快に筋肉は常に動かし、体の制約を離れ、執着しないで無心の中で意念を操作していく。このようにして鍛練すれば奥妙に達することができる。

四、独立守神、筋肉若一 の鍛練
 古代医学の名著「素問・上古天真論」の中に
 提挈天地、把握陰陽、呼吸精気、独立守神、筋肉若一 とある。養生の秘訣を言っている。
 この中で独立守神、筋肉若一について補足しておきたい。
 独立守神についてであるが、鍛練の前に精神の準備をして、自然世界の秩序に思いを馳せることである。
 植物を見ると外形は不動に見えて、内面は刻一刻変化を遂げている。断続した一貫性のないやり方はこういった自然の秩序を壊してしまう。
 局部的な運動は有益であるが、長く行えば体を慢性的に傷付けることになり、害になる。
 鍛練時には永遠にその状態を保持するという意識で、心は虚にして体を真っ直ぐにする。緊張がなく姿勢を維持できるようにする。バランスがとれていて軽く緩んでいる状態でありながら、ゆるやかに力を得ている状態である。
 また、鍛練時には精神を集中して意識を固定させる。黙って普遍なものにに対峙して体内と精神は清く虚して空洞となる。外面的には円を成して構え、歪みのないようにする。精神を楽しい状態にする。雑念を取り去り、感情の動きもなくして、静かに呼吸を整える。内外同時に養いながら、全身の毛穴を開いて建物に風が出入りしているようにゆったりとする。
 天空に浮かんでいる袋のような感じに、体の筋肉がひとまとまりにまとまっていて、上からは縄で吊り下げられ、下からは木で支えられているように感じる。草原に横たえているようにして天空に浮かんでいるようでもある。。あるいは水中に漂うように立っている状態である。筋肉は鍛えなくても自ずから鍛えられ、神経を自分から休めようとはしなくても休まってくる。
 これが鍛練の基本的要領である。
 精神集中の状態は、溶鉱炉にたとえることができる。燃えたぎる溶鉱炉の中には何も入っていなくて、どんどん雑念が吸い込まれていっている。浮かんで来る雑念は皆溶解してしまう。意識で雑念を払おうとすればかえってそのことが雑念となり、さらなる雑念を生じる。それでは精神は分散して、意識は外へ離れていく。
 次に体と大気との呼応について述べる。大気との呼応は体全体の本能的作用であって意識によって行われるものではない。局部に偏って行おうとすれば、かえって体全体の本能的作用が破壊される。だから站椿は本能に依存した術だと言えるのである。 鍛練の方法は簡単のようでもなかなか難しいものである。
 初歩の段階では、不動の動を悟ることである。
 外見は不動でも、体内は運動している。
 大きな動きは小さな動きに劣る。小さな動きは不動に劣る。足と全身の関節筋肉を意識で動かすことは不動の動ではない。不動の動によって神経は安定し、熱と力が保持され自然に新陳代謝が増強される。この基礎ができてから初めて動を学ぶことになる。站椿をしていると容易に不動の動を体得できる。動は不動と同一である。鍛練が進めばこの原理がわかり、動と静は根が同じ動の範疇だとわかる。
 この後、弛緩と緊張の力学的作用と大気の持つ圧力とを理解でき、バランスのとれたなかでの微妙なバランスの乱れをコントロールできるようになる。
 動きには、堅さと柔らかさ、虚と実、弛緩と緊張、表と裏などの関係性が同時に存在する。全体の身体中では上昇は下降を伴い、下降は上昇を含んでいる。その接点は上下が出会うところでそこが攻めるところである。内外、左右の動きもこれと同じである。試してみることでわかる。
 鍛練は形に現れない力の内での本当の力を追及するものである。微動の内に速い動きを追及する。しかし、一度形のある力を使えばたちどころに心身は硬直して、本来の状態が失われ「血」の流れが疎外される。この形のある力は意識的精神的なもので、この力は全体の均整のとれた形を破壊してしまう。無形の力こそが本当の力となるのである。
 まず、不動の意味を知る。さらに微動に進む。
 動きたければ止どまろうとし、止どまりたければ動こうとする。動いているときは止どめることができず、止どまっているときは動かないでいることはできないの理である。
 馬鹿馬鹿しい中から巧みさを求め、平常の中から非平常を求め、抽象の中から具体を求めるのである。
 鍛練の時、全身の関節は形は曲線的に、力はまっすぐにする。精神は弛緩して意識は緊張している。筋肉は力を含み、骨は強さを宿し、精神は霧に隠れる豹のごとく、気は猛り狂う龍のようになる。
 強風が木に襲いかかり、ひき抜こうとして、揺らし持ち上げるが、木は山の勢いでその場から動かないように、見かけはよくないが、精神意識の力は充実して非凡である。
 筋肉若一は特別重要な功夫であり、また別の功夫に見えるが実際は以上述べたこととと密接な関係がある。この功夫の基礎がなければ疲労に耐える持久能力の動作はできない。筋肉の鍛練は、身体と意識が相互依存する精神主導の功夫でなければならない。
 站椿では運動を強めれば疲労は低減し、疲労が低減すればすなわち運動が強まる。鍛練と休息が同時に行われる。方法が合っていれば、知らず知らずの内に疲労に耐える、持久能力が向上する。大脳と心臓の負担が軽減され楽に力がつく。

五、調配方法
(一)肢体調配
 高い低い、左か右か、単独か二重かなどによって鍛練の方法を調整する。頭、手、胴体、肩、肘、足、膝、胯関節などには、一重か二重か、弛緩か緊張か、虚か実か、軽いか重いかの区別がある。その他こまかいところも同様である。骨格の保持の仕方、力の加減、筋肉との連携などを考慮して鍛練の方法を調整する。
(二)内臓支配
 神経による内臓支配は意念指導のもとで行われる。心理作用が内臓生理に、内臓生理が心理作用に影響しあっている。
(三)時間調配
 精神状態や体力によって鍛練する時間は調整する。負担能力を越えないようにして精神的にストレスにならないようにする。

六、健身站椿歌
 健身椿はみかけは極めて容易だが深く追及する糸口でもある。あせってはいけない。 よい場所を選んで行う。
 陽のあたる空気の流れる場所、水場や樹木のあるとこらならなおいい。
 歩行、座、臥、立式いずれもよい。全身内部外部ともにゆるめて、背骨を伸ばし、腰から首が一直線にする。全身の関節はみな曲がっているようで伸びている。体内は空洞となり清らかな虚を作る。精神集中して気を静める。
 腕は半円を描き、脇の下を開く。
 思考を止め、力を使わず、心臓に負担がかからない。大脳は休息し、天に浮かんでいるような気分で感情や世俗の垢を洗い流す。
 心を虚にして一人立ち、天地に抱かれ、迷うごとく酔うごとくゆったりと。
 水中で息を吐くようにして息を吐き、嬰児にかえって天を仰ぐ。
 師の言葉は守るが拘泥する必要はない。この中に無限に深い蜜があるのである。
 動くときは水中の魚のように、自由自在に真に自在に振る舞う。
 次に各種の力を試験することについて話します。
 有形の力と無形の力、有意の力と無意の力、自動的な力と被動的な力、全体の力と局部の力、定位の有る蓄積された力と定位のない蓄積された力。などを試験する。
 応用と練習は、骨にはかたさがあり、筋肉には伸びる、沈む、差し上げる、分ける、捧げる、止める、飲み込む、吐き出す、などがある。
 筋肉の働きはぜんまいに似て、毛髪の根部はほこのようである。回転しながら巻きこむ力、金属を切断するような力、冷徹に素早く、包丁のように切り、斧のように裂く、曲折した路線に弛緩と緊張がある。平面上には虚と実の区別がある。突然高くなったり急に低くなる。高低は随時変化する。精神は怒る虎のごとく、気質は霊敏なさいのように山が飛ぶように身を動かし、海が溢れるように力を漲らせる。
 これは、特別なものではなく、形をとおして意を形成して、抽象のなかに具体的なものを求めるというものである。

七、基本姿式
 下に掲げる2枚の図は姿式の輪郭で、初めての者の参考であるが、これに基づいて練習するほど明確な図ではない。
 運動の特性について。運動中には身体内外の変化を感知し、全身の大小関節はみな微曲して鈍角の三角を成し、更に平面的にならず、どこにも執着しない。軽快にして一体となって、全身の血液循環は砂の間を水がきりで穴をあけるように穴を作りながら通るように意識し、水中に漂う木片を押さえるようにする。
 全身はまた、湖水に船を浮かべたようにして飄々として定まらず、風に任せて、自然に耳を傾ける。
 このような精神的表現は、個人の風格、性格、生まれつき、特性などのほか、年齢、体質、鍛練の経歴、病状などによって異なるので実際はを数種の姿式にまとめることはできない。
 このように、それぞれの条件によって採用すべき運動は異なる。鍛練が深まるにつれ次第に強めて、適宜変えていく。病気のあるところに効果が及ぶように配慮しなければせっかくの力も活用されない。
 姿勢や骨格筋肉の使い方の種類と、精神、意念、など内面的な種類とがある

(一)站式     
1、休息式
 両足は八字に開いて、肩幅と同じ幅にする。足の指は軽く床をつかみ、全身の体重を足の裏に載せる。両膝が足先から前にでないようにして両膝を曲げる。お尻は腰かけるようにする。上半身はまっすぐに、両手は手の甲を背中につける。腕は半円を描くようにして脇の下をあけ、背骨をまっすぐにのばす。
2、扶按式
 両腕を前に構え、手のひらを下にして手の指は軽く曲げて自然に開く、指先は前方斜め下を向ける。水中の木片あるいは水中のボールを押さえるようにする。その他は休息式と同様。
3、掌抱式
 両手は胸の前、胸から30センチはなし、手の指は軽く曲げて自然に開く、両手の間はこぶし3っつほど開ける。抱式は手のひらを内側に向ける。掌式は手のひらを外に向ける。その他は休息式と同様。
(二)座式
1、椅子式
 上半身はまっすぐにして、両膝は90度に曲げる。足の裏を床につけて、肩幅に開く。両手はふとももの付け根におき、手の指は軽く曲げて自然に開き、指先は斜め前方に向ける。腕は半円を描くようにして脇の下をあける。
2、両脚を前に伸ばし、膝は軽く曲げる。足先を上に向け、両手はかばんをもつようにする。
(三)半伏式
 一般に消化系統に有効。両足を開いて立ち、両手を机や椅子の背につける。肘をつけてもよい。お尻は椅子に腰掛けているようにして、腹部は弛緩させる。
(四)臥式
 あおむけに寝て、両足を軽く開く、かかとを床につけ両膝を曲げる。肘を床につけ両手はもものつけねか下腹部につける。または胸の前でかばんをもつようにしてもよい。
 以上、頭部を真っ直ぐにすること、後ろや左右に少し傾けてもよい。目は閉じても、半分閉じてもよい。遠くの一点をみつめてもよい。また、ぼんやりと遠方を見てもよい。全身の力を抜き放鬆する。意念活動が極めて重要であるので、他の文章を参照すること。

八、練習たんとうの理解とよくある現象
 一般的には練習10日で、たんとうのよさがわかり、気持ちが愉快になる。この感覚は日増しに高まる。
 練習数日で筋肉のふるえ、しびれ、痛み、はれ、などが起こる人もある。これはおおかた筋肉の運動障害による気血不通か、疲労、生理上の欠陥などから起こるが、疲労しすぎないようにして、楽に放鬆するように注意して緊張しないようにしていれば、次第に気血が通り、筋肉の力もでてきて改善される。
 疲労を感じない程度の規則的震動は筋肉系統と気血が開いてきたことによる好ましい現象で、故意に止めようとしたり故意に強めたりせず、自然に任せるようにする。特に、涙がでたり、あくびがでたり、おならがでたり、げっぷがでたり、腹がなったり、むずむずしたりするのは病気回復の過程の現象で病気回復と共に自然に消失するものである。

九、たんとうの各種疾病に対する治療効果
 たんとうは神経機能の調整、呼吸調整、血液循環の増強、新陳代謝の増強、などのため、神経系統、呼吸器系統、循環器系統、消化器系統、筋肉系統などの新陳代謝と各方面の病気症状、特に慢性的症状には良好な効果がある。
 4、50年の経験から見るとその効果の程度は人により、病気により大きく異なる。遅い早いの別はあるが継続した場合は効果がなかった例は極めて少ない。回復後の鍛練を続けることにより、体質の強化、老化防止の効果もある。
                            以上

 

 


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