気功の立場から見た仏教   「超効能気功宝典」より


 中国気功の現代の5大派のひとつに仏家があります。香功もそうですが、仏教を信仰する人々の間で伝えられてきたものです。
 釈迦ゴーダマシッタルタ(釈迦族の聖人)の時代、ヨガが盛んであった。(このヨガは蔵密のヨガとは違う)インドヨガ経典のウパニシャドの中に「造物主は人類の耳、目を外に向けて造ったので、外ばかり気にする。賢い人だけが、自己の内側を見る。」という有名な文がある。
 釈迦は文武両道に優れ、瞑想が好きだった。生きる者の苦痛を知り、出家してヨガの修行者となった。苦行とをかさね6年の避穀功(穀物だち)を行う。更に菩提樹の下で高級気功を行い、悟りを開いた。
 仏教のいう戒、定、慧の定は古代ヨガからきたものであり、実質的には気功である。
「超効能気功宝典」1991年4月発行に書いてあるんですが、良く見るとその表紙には、驚くべきことに、何の注釈もなく麻原しょうこうの裸で空中浮揚している写真が使われているし、本文中インドヨガの紹介の中で空中浮揚の方法が28項目に分けて書いてある。
文化大革命前後
 千数百年を飛び越して現代の中国気功の状況に少しふれたいと思います。
 宋の時代には三教合一の思想が盛んになる。元時代には、正一派と全真派の両派にまとまった。しかし、国家の宗教にまでなった道教も明時代からは衰退の一途を辿る。

1950年代「気功」という呼び方が定着


 そして、中華人民共和国が成立、宗教、気功に微妙な変化が現れて来る。
 医療品の不足や、伝統を見直そうという機運に押されて、まずは医療の現場に気功療法が浸透して来るのである。「気功」という名で、受け入れられて行ったきっかけとなった。「気功療法実践」を世にとうた劉貴珍は、今日の気功事業の基礎を作った人の一人である。 劉貴珍は、貧しい家庭に育ち、天津で店員をしていたが、革命に参画した。20才のころから胃腸病、不眠症などで苦しんでいたが、1948年28才のとき内養功と出会い治癒した。内養功は、五台山の僧侶が、伝えもので、一代単伝で続いてきた。その後共産党に入党した劉貴珍は、共産党幹部の休養施設勤務になるが、内養功で念ずる仏教の言葉を健康を願う言葉に変更したりして整理、強壮功、保健功などを加えて、病人に教える。効果が顕著に現れ、1954年には唐山気功療養所を開設して、臨床に応用、人材の育成に当たった。
 当時はまだ気功という言葉は定着していない時期で、医療気功は深呼吸療法として1954年に医学雑誌に発表されたり、「呼吸養生法」などという名で紹介され始めていた。1956年には北戴河気功療養院が劉貴珍を院長として発足し、翌年「気功療法実践」が出版され、民衆に歓迎され、ここに気功の大流行の基礎が築かれたのである。
 上海にもこの波はすぐ伝わった。上海衛生局は蒋維喬を招いて人材の育成を開始する。早くから蒋維喬は「因是子静座法」を書き、研究を続けていた。蒋維喬は子供の頃から、めまい、耳なりなどに苦しめられ、17才のとき熱病にかかり、家にあった養生法の本で学び、克服した。しかし、練功を続けなかったため、28才の頃ひどい結核にかかってしまった。そこで小周天法に打ち込み完全に健康を取り戻した。
 蒋維喬は1956年、気功という名が世に出てきた時期、気功という名称は、妥当ではない、養生法というべきであると書いている。
 副作用である偏差が若干認められたこともあり、蒋維喬は「因是子静座法」に外功を紹介しなかったのは欠点だ。静座と並行して、八段錦、太極拳などの外功もやるべきだとしている。
 1957年には上海気功療養所が開設され、本格的な活動を開始した。
 北京では鍼灸の方面から焦国瑞、王郷(くさかんむり有り)斎などが武術の方面から、頭角を表してきます。

迷信、唯心の帽子


 このように、一大熱風を起こした気功も1965年、文化大革命の時期になると、迷信の帽子をかぶらされ、完全に停止させられてしまうのです。道教、仏教の寺院はことごとく破壊され、どれほどの文化遺産が灰となったでしょうか。残念です。
 気功は壊滅的打撃を受け、一見消えてしまったかに見えた。しかし、1978年待ち望んだ春がやってきます。四人組が粉砕されて、全国規模の気功研究活動が復活します。銭学森教授が気功は人体科学であるとのおすみつけをします。
 文化大革命中も厳しい練功を積み重ねてきたという林厚省は、真っ先に外気の物理的測定に協力、さらに気功麻酔を成功させます。
1979年には焦国瑞が、「体育報」に静功、松静功、站とう功などを発表します。

癌を治す新気功療法


 迫害を受けながらも、公園で教え続けた郭林の功績も忘れてはならないと思う。
 彼女は画家です。若い頃から、子宮癌などにかかり、6回の手術を受けたが、子供の頃祖父から教えられた気功を思いだし、文献や、関係者を訪ねて気功で自分の病気に打ち勝った。郭林は、その経験から新気功療法を編み出し、、雨の日も風の日もかかさず公園で、皆に指導した。文化大革命の迫害の時期、アメリカに移住していた娘がアメリカへ来るように誘ったが、気功は祖国中国の文化遺産であるから、これを祖国の人々の治病のために役立てるべきだと、彼女は迫害にめげず、教え続けた。


  



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