偉大な祖師厥阿水  


厳しい練習に絶え身につけた少林内勁一指禅を現代に伝承し、気功に生涯を捧げた闕阿水の紹介です。    


-古代から伝えられてきた一指禅-  名前のとおり禅宗の僧も間で伝承されてきたもので達磨の創造したもと伝え られてきました。清の時代にほ福建省にある南少林寺で小林武術として盛んに行 われ、倭冦との闘争で名声を博したこともあります。その後は禅僧によって一代 に一人だけにに伝えられてきました。、口伝えされてきたもので文献はありませ ん。 中国には数万の功法があると言われていますが、小林内勁一指禅はユニー クで効果の著しいものです。

- 修行僧になった闕阿水-


海騰法師 厥阿水は一九一九年に蘇州で生まれました。
  家が貧しいために福建省の南少林寺に引き取られ苦行僧となりました。彼 がまだ七歳のときのことでした。
 南少林寺で、三代禅師から伝統武術を習います。
 闕阿水は日夜苦労をものともせず練功、武術と医術を身につけます。
 武僧の杜順彪太師について一指禅のてほどきを受け修行に励みました。
 厥阿水が杜順彪と兄弟子たちと一緒に食道で食事中のときのことです。偶然 別の一門とでくわしました。 彼らは腕試しをふっかけてきたのでした。最年少 であった厥阿水はみなさん私にお任せ下さいと言うや、すっくと立ち上がり、指 2本でテーブルの板をつまみ、もう片方の手で脚をつかみ気合いを入れると机は 一瞬のうちに板と脚とにわかれてしまいました。それでもテーブルの上の料理は 一つもこぼれていなかったのです。相手方はその功力の非凡なのをまのあたりに してすっかりおどろいて、争う気持ちはなくなって引き上げたというエピソード が残っています。
 杜順彪太師がこの世を去る前のことです。真摯な練功態度を認めた杜順彪は 、ある晩厥阿水を庭に呼んで代々伝えられてきた秘伝のすべてを伝授しました。 一指禅の奥義は単伝を守られていたために闕阿水だけに伝えられたのでした。

- 上海で工員とな り、練功を続けながら治療-

 こうして少林内勁一指禅の 第十八代の伝人となった闕阿水ですが、働き手 が必要となった家族に呼び戻されて環俗します。二十五歳のときでした。
 上海で工員になりますが、その間も黙々と練功をつづけました。
やがて結婚し、二男六女をもうけます。
 厥阿水の息子厥巧生が子供のころ弟と一緒にいたとき、父を怒らせたことが ありました。あわてて逃げ出したが厥阿水が手を伸ばしただけでひきもどされま した。
 当時厥巧生はどうしてひきもどされたかわからりませんでした。父はその場 に立ったままだったのです。
 離れたテーブルの上のコップを動かすことができましたし、本のページを触 らないでめくったり、離れたところから帽子をとったりすることもできたと息子 厥巧生は回想しています。
離れたところから手を触れず瓦をわることもできました。
 他の流派の武術を次々と学び精通します。気功師厳新の先生である海燈法師 とも腕を磨きあったなかでした。
 また医術の面では 暇があれば熱心に難病患者の治療にあたったので、気功 神医と呼ばれるようになります。
 病気で頼って来る人があれば、わけ隔てなく手を差し伸べ金品は決してうけ とらなかったのです。その技は神医の誉れに値するものでした。
  外国からの招請もありましたが「まだ中国人が学んでいないものをどうし て外国人におしえられるか」とことわったそうです。
 生活が安定すると闕阿水はは単伝の戒律を破り小林内勁一指禅を素質のある 人に伝授しはじめます。
 姜廟桃、劉茂林、蔡秋白、黄仁忠、林厚省、王瑞亭、王忠良、徐鶴年、胡吉 甫、楊春発、黄恵賓、張金華、李培海、李関英、王正、張金発、陳守勤、など2 0数人にが弟子になりました。

-腕だめし-

 こんな話もあります。
 ある時闕阿水が家の中でお茶を飲んでいると五、六人の若者がいきなり入っ てきた。 「おまえが厥阿水か。噂ではたいした腕だそうじゃないか。腕を拝見といこう じゃないか。」
けんかをいどまれたと悟った厥阿水は
「私には見せるようなものはなにもないが、あなたがたの面子がたたないよう ならば、遠慮はいらない。かかってきなさい。」厥阿水は腕時計をはずしながら
「これは我が家で一番値のはるものだ。50元もしたんだよ。私はこの椅子の 上に胡坐をかいて座るとしよう。あなたたちが私を椅子から落とせたら私の負け 、この時計を進呈しよう。もし落とせなかったらあなたがたの負けだ。50元私 にくれるという条件ではどうかな。」といった。
 彼らが今にもとびかからんばかりの時、いあわせた弟子の黄仁忠が、割って はいった。
「先生、待ってください。先生が相手するほどのものではありません。」
「おまえからかたずけてやろうじゃないか。」
 若者たちは、黄仁忠に向き直った。
「さあ、おまえたち、上海雑技団の黄仁忠がお望み通り相手になってやろう。 」
その言葉を聞いたとたん若者たちはふるえあがった。当時黄仁忠は上海で荒く れ者の一団をたおしたこと で大変有名になっていたのである。
「あなたがあの黄仁忠先生ですか。とんだ失礼をいたしました。この老人が黄 先生の先生ならもう腕だめしなんかに用はありません。」そういってその場の雰 囲気はやわらいだ。
 弟子の一人である徐鶴年は1950年代に心意六合拳を習っていましたが、 1960年闕阿水と会い、入門を請います。2年の後にやっと入門を許され、以 後闕阿水に従って練功し、研究に携わりました。
 1981年6月 闕阿水は上海市内の体育館で内勁一指禅の公開伝授をはじ めて行いました。それがきかけで闕阿水とその弟子たちは上海原子核研究所の内 気外放の物理的研究にも参加するようになりました。
 1982年4月には中国国家体育委員会は闕阿水の練功と指導の様子を撮影 しました。その映像は国家の幹部に送られ名実ともに、内勁一指禅が世にでたの でたのですが、まもなくして闕阿水は突然脳溢血で倒れました。

-突然の死-

 1982年六月一二日、午前に脳溢血を発病その夜十一時に他界しました。
  十数年前にに頭に10キロの石の塊を頭に受けて重症を負ったことがあり 、その後遺症によるものではないかということでした。
 本の出版が決まり執筆をはじめた矢先のことでした。志し半ばにして闕阿水 はこの世を去ったのです。 闕阿水によれば、たんとうには501種あるという ことでしたが、突然の死によってその多くは世に出ることなく消えました。現在 伝えられているのはそのうちの数十種にすぎません。。馬歩、虚歩、弓歩、一字 歩、七字歩、丁歩、捕歩、点歩、畳歩、虎形、龍形、蛇形、金鶏独立など基本の たんとうがほとんどです。
 彼は弟子たちにとって、生涯忘れられない厳しくも優しい父でした。王瑞亭 はこう書いています。
 敬愛する老師がこの世を去った日、老師は午前中にはいつものように患者の 治療をしていました。生きている間は人々に献身し続けなければならないという 言葉を身をもって示したのです。敬愛する闕老師よ安らかに眠って下さい。あな たの気功事業に対する献身的精神は永遠に我々の心の中に刻みました。必ず、残 された者は老師の教えを忘れることなく、遺志を継承して気功事業のために奮闘 努力します。
 ああ………
 行く人は明日の発展を見ることがない
 悠々の天地を思い、一人頭を垂れて涙する
 敬愛する闕老師の言葉は永遠に枯れることはない。 上海  

  厥阿水の息子厥巧生は 父の意志をついで無償で病人の治療にあたり、全国 各地で後進の指導にあたっています。 
 厥巧生は雑誌の取材で以下のように語りました。
 病院では治療効果は問題にされず、たとえ死んでも責任を追求されることも ない。それにひきかえ気功は効果がなければすぐ問題にされる。ある人は一年間 薬を飲み続けて治らなくても更に飲み続ける。気功の場合は十回の治療で効果が なかったらもう治らないと言われる。これは不思議な話である。 


少林内勁一指禅馬歩站椿 経験


 私は王瑞亭著「少林気功内勁一指禅」を読んで練功をはじめて、1カ月もた たないうちに気感と効果が現れました。全身に気感が強烈に現れただけでなく、 両手にしびれと温度変化の感覚が起こり、まるで電気に触れたような、あるいは 虫が皮膚の上をはっているような感覚です。「かいちゅうらんげつ」を行った後 、指先から水滴が垂れてきたのです。
 練功後4,5時間の間は全身の気が走っている感覚があり走っては止まり、止 まっては走りして手足は温かく、以前のような手足の冷えはもうありません。こ のような感覚を体験するとますます練功への意欲がでてきます。
 朝夕の練功の際には部屋に一陣のさわやかな風が吹き抜け、まるで木の葉の 小舟に乗ってゆったりと河を下っているような気持でです。昼間の時間は気力が みなぎって仕事がはかどります。夜、布団に入っても気持のいい寝つきで、以前 のように布団の中でもんもんとするようなこともなくなりました。朝がくればさ っと目覚め、もっと寝たいなどと思うこともなくとびおきます。以前怠け者の王 様というあだ名をもらっていた私が、見事勤勉で成績優秀に変わったのです。
 この功法の最も重要な点は動作の正確性です。精神統一や瞑想など全く必要 なく、意識の持ち方は強調しません。練功中にテレビを見てもいいし、人と話な がらでもいいのです。得気が早く、気感が強い。学校など集団で練功するのにも むいています。
                                                                         上海在住 黄 明