道教と気功

 共に私の使っている日本のワープロでは語句として登録されていない。図書館で宗教のコーナーへ行ってみても、まとまった本としては道教関係は極めて少ないのである。
 では一体中国ではどうなのだろう。
 文化大革命の期間中、道教と気功は迷信の帽子を被せられ、徹底的に弾圧された。その例を西安の郊外にある道教の聖地である華山に見てみよう。
 9月の中秋の名月の日に頂上を目指した。登り口の道教寺院は立て直したばかりで古いものは何も残っていない。参道にはお土産やが並び、旅館の客引きもある。ハイキングを楽しんでいる若者が目につき信仰の香りはない。
 山道を少し上った所で道教の道士が祠を一人で直していた。挨拶するとと、参拝していくように勧められた。石の囲いがかろうじて残っているだけだ。
 山全体に無数の道教寺院の跡が散在しているが、ほとんど旅館か食堂になってしまっている。山頂近くの大きな寺院ではカラオケの音も賑やかに宴会が行われていた。
 南峰の頂に、火災の後のような建物の残骸があった。壁だった石の部分が奥に立っている。その前で若い道士が松の実をまつぼっくりからはずしていた。案内してもらって中を見ると一部を修理して真ん中に真新しい神像を祭ってあり、その横に彼が住んでいると言う。入り口の脇には、打ち壊された上に焼けた神像の破片が置いてあり、文化大革命の時にこうなったと言った。それ以前には数十人の道士を擁していたと言う。
 本来、道士が行っていたと思われる気功は全く影も形もない。道教の経典を詠んだり、神像に対しての礼拝が日課になっている。
 北京には道教寺院である道観がある。ここは良く復元され中国道教協会の中心的役割を担っている。中国道教協会発行の道教概説には道教の様子が書かれている。

 道教の起源と形成

 道教成立は東漢(後漢)順帝(西暦126〜144)年間というのが定説である。それ以前にも西漢時代の神仙術、老子の黄老道などを含めて2千年以上の歴史がある。仏教と並び、政治、文化、思想方面に多大な影響力をもってきたが、清代以降は衰退した。しかし、民衆の習慣に組み入れられた面も多く、信徒は少なくない。
 道教は内容豊富であり、大きく3種の思想を基礎に成立した。(仏教が中国に伝来し、競いあう中から道教が成立するが、両者は交じりあっている。)その3種とは、鬼神崇拝、方仙信仰、黄老学説である。
 紀元前千数百年前の殷の時代、巫術がもてはやされ、周時代には、天神、人鬼、地祇の鬼神の体系化が進んだ。これを継承した形で道教の多神崇拝が生まれた。
 戦国時代になると(紀元前475〜221)仙人の術が起こり、錬丹術、神秘的な方術が研究された。(これは、金属精練、医薬に生かされ、科学技術の進歩の原動力にもなるが、当時は仙人になり、不老不死を追及するという目的であった。)神仙家と言われ、陰陽五行説とも結付き、道教の神仙信仰に受け継がれた。
 西漢(前漢)初期、統治者は黄老清静の術で天下を治めていた。儒家が孔子を神格化したのに刺激を受け、神仙家は黄老学説の理論を吸収、黄帝(5000年前、黄河流域に栄えた華夏族の王)と老子をまつり、黄老道として宗教化してくる。黄老道は道教の前身で、あり、その理論的根拠となっていく。
 西漢成帝の時期(紀元前32〜7年)方仙道を信奉していた甘忠可は、当時斉国で盛んに行われていた陰陽五行学説を取り入れ、太平の道を提唱した。宮廷官吏の間に浸透したが政敵に誅され、民間に秘密に行われていった。漢時代になり、長角が出て、太平道を復興させたが、黄巾の乱に破れ再び、民間に秘密に流行するようになった。同じ頃、張陵が入門者から5斗の米を収めさせた、五斗米道を起こし、信者を獲得していった。漢末の張道陵は自らを天師と称したので後に天師道といわれるようになった。
 太平道、天師道とも教義に差はなく、行事、儀式については簡略であった。が、天師道は歴代の支配者の信仰を得て、充実していった。
 老子が太上老君(道徳天尊)として神格化されたのは東漢時代、仏教が伝来し、対抗上宗教としての体裁を必要としてきたためでもある。老子は宇宙の根源を自然とし、自然が宇宙、万物を作り出したと説き、他の鬼神信仰の墨子などに比較して神仙家の要求に適合していたので受入れられた。
 道教は老子を教祖と仰ぎ、老子の語った五千文が道徳經とよばれ、これを経典としたため道教というようになった。
 根本思想は道の観念にあり、その解釈は多岐に渡っている。生との協調も重要視され、長生きをすることが理に適っているとする。

 道術は道教の習練の方法である。占い、御札、祝詞、などによって邪鬼を払う。健康長寿薬を求めて水銀などを火を使って練り、丹を作る外丹術。現代の気功に近い内丹、瞑想方。呼吸法、導引術、按摩法、辟谷。房中術とよばれた性医学など。養生に関するものが多い。
 辟谷は断食ということですが、道教では、人体内に3匹の虫が住んでいて人に害を及ぼす。穀物を絶つことでこの虫を殺すことができるとしている。(日本にある庚申信仰のもとになっている)
 
 

小周天と道教について

 
 上海に行く前、私の気功に対するのイメージは小周天だった。小周天の経験談を読んで以来、小周天をやってみたいと思っていたのだ。
 上海気功研究所の先生から医療気功などを学びながらなんかちがうなあと思っていた。さて、小周天はどこにあるのでしょうか。
 以外にも道教の中に小周天があったのです。
 道教とは韓国の道教会館で世話になったとき、の法を受ける儀式をうけたのが始まりだが、当時韓国語がまだわからず、その時点では何がなんだかわからなかった。数年前台湾で道教寺院をたずねたときも、昔の皇帝のような人形が線香ですすけているのを見て、「ずいぶん黒い人形だなあ」とおどろおどろしいものに感じただけだった。もうもうたる線香の甘い匂いに、麻薬のような中毒性すら想起された。
 実に周天功はそのなにがなんだかわからない道教の修道法の一つだったのである。周天功を行う流派は内丹派といわれ中国では最大の気功流派で、多くの派にわかれ、文献も最も多いということはだいぶ勉強してからわかった。
 では道教とはどういうものなのだろうか。

道教とは

 道教とは、中国古代の土着宗教信仰がもとになって形成された、「道」という概念を最高の地位におき、神仙学を中心にした、肉体と精神を共に修練する手段。命を貴びこの世の人生をの不老長寿を追及する宗教とも言えます。
 道教は古代の原始巫術、秦の神仙学、漢の黄老学の3つを基礎に後漢時代に成立した。 巫術と医術  まじないによる病気なおし。
 原始巫術は殷時代、盛んに行われていた。巫術を業とする巫師は、鬼、神の力を借りて、神がかりして占いや医術を行った。鬼神の祟り、祖先の影響などが災いして病気がおこると考えられていた。巫師はまた、按摩、鍼灸、漢方薬を使って治療していたことが、文献にある。このことから古代巫と医は不可分であったことがわかる。
 
巫術と気功 

 歌と踊りが健康によい。
 巫師は主に女性で、歌と踊りによって神霊と感応し、歌と踊りは世間にも広がった。踊りのなかには動物の動作を真似るものもあり、健康に有益で、奨励され、気功導引術の原形になった。以後道教の多神崇拝とまじない方術に継承された。
 戦国時代、神仙学が出現した。膨(月へんなし)祖仙派は吐納導引を行い、不老長寿を追及する、仙人への道である。神仙学は陰陽五行説をとりいれ、方仙道として発展する。 方仙道  仙人になるための修行 呼吸と体操と薬草、栄養食品。
 方仙道は、仙人に関係がある。巫術に対して方士、方術と呼ばれ、吐納導引派、房中派、服食派などにわかれて発展した。 吐納は呼吸のことで、導引は体操のようなもの。舞踊、動物の動作をまねたものがあり、動功に当たる。

 不老不死の研究

 服食派は、草木薬石の利用と食品の栄養を重要視するものがあるが、外丹術に発展する。外丹術は水銀、鉛などを含む鉱石を使って不老不死の薬を作り出す試みで、1000年かけても、成功しなかった。多くの中毒、犠牲者をだしながらしかし、火薬や磁石、金属精練法などにすこぶる貢献した。
 

 黄老の道
 黄帝と老子の思想で政治を行う。
 漢の時代になると伝説上の黄帝の思想と、秦の思想家老子の政治哲学をあわせた黄老の道が儒学と共に統治者に貴ばれようになった。黄老の道には方仙道の思想も含まれていた。方仙家は黄老の道と合流、仏教、儒教に触発されるようにして、黄帝、老子を神格化、宗教の体裁を整えていく。

 政治が乱れ、道教が広がる。
 後漢時代後期、張角は「太平経」を経典とする黄巾太平道、張陵は米を五斗ずつ納めさせたためそう呼ばれた五斗米道を興し、当時の政治腐敗、凶作、疫病などの社会不安が増大の時期に国中に広がった。太平道はお札、まじないで病気を治し、農民を組織、一斉峰起を準備、政権奪取を計画するが黄巾の乱で壊滅する。
 老子の「道徳経」を経典とした五斗米道は数十年にわたって、広大な教区を治め、張陵は自ら天師と称し、天師道とも呼ばれた。魏の曹操に破れるが、傘下におさまり、影響力はかえって増大した。五斗米道は護符、おふだを使い符ろく派とよばれ、民間に流行。別の一派に丹鼎派があり、上層社会に流行して行った。
 以後、多くの派にわかれながら、唐、宋時代には最盛期を迎え、西安には40余りの道教寺院が軒を連ねた。儒教、仏教と対抗した時代もあったが、三教調和の思想が大勢を占め、仏教、道教を同時に信仰することをすすめ、国家宗教としての地位を獲得、教義内容は増えて行った。
 丹鼎派は金丹道教とも呼ばれ、そのお修養方法は外丹術と呼ばれた。宋の時代、張伯端は集大成した。
 金丹とは、丹砂または朱砂と呼ばれる硫化水銀に鉛、硫黄などを加え、加熱、溶化鍛練しつくる、黄金同様の物質で不老不死の薬である。外丹とも言う。
 外丹術は成功せず、内丹術にとって変わるのである。
 道教とは別に道家の流れもあった。宗教化しない道家は道教と離れて受け継がれた。

 三教合一

 張伯端は三教合一を唱え、王重陽が深め、元時代には江南道教に受け継がれた。道教側が、大量に儒家、釈家の思想をとり入れた時期の思想です。
 江南全真道教の代表人物、李道純は三教異流同源の説をとり、円覚(仏家)−金丹(道家)−太極(儒家)の共通性を論じた。儒家の太極、無極の観念を引用し、理論を深めた。仏教からは心性の説を援用、また、禅宗の打座、参究、棒喝、円相などを採用し、明心見性に応用した。北宋禅宗臨済派の看話禅、すなわち公案を採用した。
 道教の神の系譜のなかに、釈迦やキリスト、マホメットなどが含まれているのもこういった融合精神によるものかも知れません。

 日本に伝わった道教

 道教の影響が日本にもあったということなのです。端午の節句の鍾馗、七夕とか、庚申信仰とか、民間信仰のような形で結構残っている。仏教のようで仏教でない、例えば、山伏とか、役の行者、小角とかいったあたりに、道教との関係が濃厚です。〜〜急急如律令。臨兵闘者皆陳烈在前。など道教文献にある言葉です。
 歩き巫女とか山伏とか、いわゆる修験道というものです。
 出羽三山は修験道の聖地で、中でも羽黒山は、いろ濃く伝統を伝えている。毎年12月31日に行われる羽黒山の松例祭は仏教とは違う匂いを感じました。
 また、青森恐山のいたこなどにも関係がありそうです。
 北京大学出版社刊 「漢文化論綱」1993年、日中文化交流の章によれば、
……道教がいつ日本に伝わったか、諸説紛々である。六朝時代には、漢人によって伝えられたようだ。日本神道は、中国道教に接触した後、次第に形ができてきた。日本の三種の神器である、剣、鏡、印は道教の儀式に端を発するのは明らかである。唐朝は道教を崇拝、老庄思想は日本でも共鳴を得た。日本神道の起源は道教と密接な関係がある。後代の緒流派の形成の多くは道教の要素を吸収した。道教は表面上、仏教のような流行はなかった。しかし、習俗、信仰の中に深く潜んでいることを無視できない。……
 学習研究社の「道教の本」では平安時代あたりからの陰陽道が、道教からきていると書かれてあります。「易経」が源流。「日本書紀」によれば513年百済から五経博士の段揚爾が派遣されたのが始まり。(五経博士に関して「漢文化論綱」では儒学を伝えたということになっている。)「神道、天皇という言葉の語源は、道教にある」実践女子大名誉教授の三谷栄一氏によれば「用明天皇即位前期や、孝徳天皇即位前期において、仏法と対句的に用いられた神道という語は、道教を指すと考えてさしつかえない」などと書いてありますが、あくまで意見でしょう。
 道教の神の中に、の他、孫悟空もあり、西遊記のなかで、気功談義をしてるなんて言うのもありますから。バラエティに富んでいると言うんでしょうか。

 禅宗の開祖 達磨

 達磨は選挙のとき目玉を入れる人形としか知らないという人もいますが、実は私も、中国に行く前は、その程度の知識でした。
 中国の按摩の一つに一指禅推拿派があります。推拿の教科書に達磨にまで遡ると書いてあり、民国時代の著作「黄氏医話」の中で明記してあるということです。私は、一指禅推拿を勉強中、達磨の考案したものと聞いて、大発見したような気持ちになり日本の禅宗の中にも伝わっているのではないかと、心をときめかしたものです。ところが、学者の考証では達磨、少林寺とは無関係ということです。
 動きのある気功のなかでも基本的な易筋経は達磨の創作した気功法と言われています。達磨が伝えたものを、僧人、般刺密諦が翻訳漢文作成という説があるわけですが、清代に書かれた「校礼堂文集」に1624年に達磨の名を冠した。という記事があり、後世に達磨の名声を借りたとのだと思います。
 当時のインドと中国の交流を考えると、菩提達磨はインドの王子でもあり、達磨の率いる、集団があったと考えるほうが自然。達磨の名声を高める作用、あるいは権威にあやかって達磨に関連づけていった後世の志向もあると思います。
 9年にわたって、座禅をしたというのですが、その方法は壁観と言われ、は一種の気功静功中の意念鍛練であると言われています。中国では座禅は気功の一種になっている。
 少林内勁一指禅功は、気功界では影響力をもった流派です。少林寺関係の禅宗の僧の間、で伝えられてきたものです。十八代伝人、闕阿水は、福建少林寺で、三代禅師の指導を受け、武術、医術を体得、1946年から上海で難病を治して気功神医と呼ばれた。1960年代から、弟子を養成した。劉茂林、徐鶴年、林厚省など、20名に及ぶ。
 林厚省の「気功学」では、少林内勁一指禅功は達磨の創造とし、易筋経についても、達磨が創造したものを僧人、般刺密諦が翻訳漢文作成したとし、さらに、身体がよくない修行僧をみかねた達磨が、強身、治病の角度から、創造したと説明しています。